子 も ち 初 日
2000年4月1日から
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| 人目のお客様です |

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黎明はいつも希望的。
肝心なのはそのあとに続く現実のこと。
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わたしは こんなに小さいから
あふれる感動に出会うことができる。
わたしは こんなに小さいから
あふれる愛を感じることがある。
小さいって ステキなこと。
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人のしあわせは、結局心が支配する。
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人はみんな不完全。
だから他人の過ちを赦すこと。
赦された他人もさることながら、
自分が恨みの坩堝(るつぼ)から解き放たれる。
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≪完全≫は神が法(のっと)るところ。
不完全は人間が漂うところ。
だから他人の過ちを安易に咎めないこと憎まないこと。
人はよく出来ても85点以下の存在だ。
私は何点?
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目に見えないものの中にも
大切なものがある。
不確かなものの中にも
人間にとって貴重なものがある。
それらを切り捨てるのが〇〇主義。
「肉眼」では見えない
「心眼」でしか見えない真実を
自分の背骨にもしようか。
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自分の至らなさは顧みず、他人の85点を揶揄する人たちも多い。。
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花は、冬に根を固めるという。
春に咲かせる花は、冬の努力の証明書。
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「鉄」はここしばらく文明の「骨」だった。
それがいま、AIに取って替わろうとしている。
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勝ち星にこだわるのではなく、
相撲取りは相撲にこだわることだ。
犬は犬にこだわり、
猫は猫であることにこだわり、
カラスは「カア−」と鳴いて、正しい。
人は何をさておいても、人であることに
こだわらなければならない。
カネや名声にこだわるのではなく、
「人」であることにこだわらなければならない。
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足らずに目ざとくなるよりも、いまあるものに感謝。
そこから正しいしあわせの芽吹きも始まるようだ。
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ナーバスになるな。新しい芽吹きの芽を摘み取ってしまう。
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棚の上の石ころになるな。棚の上の輝く人になって暗闇を照らすことを願う。
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過去にこだわるな。未来を失う。
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「使う」はいい。物が生きる。
しかし「ムダ」はよくない。
「ムダ」は存在した物を「殺す」こと。
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アメンボウは水面をスイスイ歩けて便利だが、「軽い」。
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「天」から地へと続く「理念」の縦糸に「現実」の横糸を正しく織り込む。
西陣織かゴブラン織・・・なんだっていい。
2本の糸を同時に満たす交点に自分を生き続けて、
たった1枚自分なりの織物を織り上げよう。
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能力を蓄える。
そしてメディアを使うといい。
5倍、100倍の効果が得られるかも知れない。
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女の子なら、「笑顔」でいればみんなアイドル。
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富士山の高さを語る者は多い。
しかし、その裾野の広さを語る者は少ない。
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恵まれない部分ばかりを見つめていたら100%不平不満だよね。
恵まれた部分を見つめたら感謝だ。
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感謝は他と自分を結ぶ絆。まるで愛に似ている。
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「自然」の辞書を開け。そこに「幸せ」への基本が記されている。
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「儲けるためなら手段を選ばず」
「勝つためなら手段を選ばず」
という風潮がわが国を覆っている。
近欲に走ってそれ自体が貧しいことだ。
正道に立って、
負けるときには「負ける」がよいのだ。
そこから始まる鈍色の貴重な真実がある、明日がある。
それを失うことに浅知恵は気づかない。
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「よかれと願って行動して、一番いいことはうまくいくことなの。
よかれと願って行動して、二番目にいいことはね、うまくいかないことなの」
と小説“赤毛のアン”の中でモンゴメリは言っている。
長く私はこの言葉を肯定していた。
しかし、最近になって優劣逆も考えられると思うようになった。
というのは、成功にはとかく喜びと共に終焉があるからだ。
それに対して不成功には、「学び」とそれに続く広がりが期待される。
ことに若い人の場合はなおさら継続が期待される。
一度の成功より、多くより深い成功へとつながる可能性を孕んでいるのだ。
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社会はいつも君にこう尋ねてくるのだ。
「お前は私に何を提供できるのだ?
その分量に応じて私はお前に対価を支払う」
要は君は社会に売ることの出来る何を所持しているのかということだ。
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その道を真直ぐ歩くと「光」に出会う。
それだけでもう満足だと思える「光」に出会う。
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宇宙はとてつもなく広いのだが、
小さな地球の上で何とまあゴチャゴチャと争いごとの絶えないこと!
もし地球外から何者かが攻めてくるとなれば、
一気に地球人は手を取り合って一致団結するのではないか?
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産卵を終えたサケはキズだらけの体で川を下り落ちる。
薄れゆく意識の中で、母サケが見たものは己の「成就」と「納得」かも知れない。
私も子を思い孫を思い、一匹のサケでありたいと思う。
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私の≪幸福≫が、テクニカルによるものでありませんように。
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思惟と言動の常が人格のレベルを決定づける。
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最後に残るもの…≪自分を信じ続けられる生き様≫
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受けた辛酸こそ財産。そっと積み上げて強靭な「力」と「やさしさ」に変える。
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森田童子は心が裸だから寒いんだ。
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100%恵まれた環境に生まれた者なんていやしない。不十分の中、未完成の中にこそ、残された余地があるんだとは思はないか。オレたちのための広場が残されているんだとは思えないか?
いうなればくもりガラスのことだ。君の手で、ぼくの手でそいつを磨けばこの部屋にちょっぴり多く太陽の光を取り込むことが出来るということだ。それこそが、ぼく自身の宝物にもなり得るということだ。
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「人生に北風が吹いたから倒れた」…では単なる物理現象だ。
人生のネガティブをポジティブに裏返す力。
それを私は「人間力」と呼びたい。
「人間力」を養わない限り
人は「物の理」現象の域を出ることはない。
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否定ばかりしていると、明日が空っぽになるかも。
よく見つめて肯定しよう。
一つ肯定。
二つ肯定。
三つ肯定。
心の中に肯定の宝石をふやしていこうか。
そうすればぼくたちの心は「宝石箱」さ。
明日がきらきら輝き始める。
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「否定」するだけなら努力はいらない。これといった裏付けもなく、口から出任せに否定することだってできるんだ。
「肯定」には見極めるやさしいハートと努力、また時間が必要だね。
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「このライオンの鳴き声はかすれていて説得力に欠ける」
「このライオンの尻尾には乾燥したウンチのカケラがぶら下がっている」
「このライオンの血には脂肪分が足りないね」
そのライオンの背中に棲んでいるノミにだってライオンをけなすことはできる。
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神(創造主)から授かった命ではない。
神から預かった命だと思う。
だから最後の日〈輝き〉という利息を付けて神に返すのだ。
人は輝きを積むために地上(ここ)に来た。
〈輝き〉こそがわが「財産」と思う。
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人生にいくら「否定」を積み上げてみても生き甲斐にはつながらない。
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正しく、まじめに生きていると、
人生、予期しない大きな幸運が2度あります。
理由は?………分かりません。
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人生には二つの恵みがある。
一つは「プラスの恵み」、もう一つは「マイナスの恵み」だ。
人はこの二つの恵みを巧く綯って一本の縄を綯うのがいい。
そのとき私たちは2×2ほども太く強くなって
人生の深みを知ることにもなるようだ。
「マイナスの恵み」のことを私たちはとかく不幸と呼ぶけれど、
不幸って、ホントにあるのかなあ?
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人生て苦労も多いが、結局オモシロい!
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ねえ、子どもたち、ぼくたちがこの世で生きていくために大切なものが3つあると思うよ
1つめはね、げんきな体。
2つめはね、かしこい頭。
3つめはね、やさしい心。
この3つが揃えば、きみはきっとしあわせな人になれるよ。
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人生て、学校に似ている。
誕生は入学、入学はめでたく、
死んで卒業もめでたい。
在校中にあっては毎月月謝を払いつつ学ぶのだ。
ああ、死は、卒業パーティのように
親しい者を呼び集め、シャンパンでも飲み交わして祝ってくれないかな。
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◆上から目線◆
最近、「上から目線」とかと言って、若い人たちは教唆的言葉を排斥しようという傾向が強い。過度の同権思想に攪乱されているのかもしれない。
どんぐりの背比べを求め、ぬっぺらぽうを社会に求め、指導されることを忌み嫌う誤った民主主義的平等信奉の結果だとも思える。そんなことを続けている間に「伝承」とか「教育」「指導」はこの国から遠ざかって進歩を鈍足にしてしまう。そればかりか、やがてこの国は背骨を持たないクラゲのような原始的国家へと転げ堕ちていくことさえ危惧される。「言論は自由」である。大人達・先輩達は恐れず沈黙を破ろう。上からであれ下からであれ、己の思考をよく練り、研ぎ澄まされた言葉で語り続けることが肝要だ。
語りかけは野球で言えば<投手の球>だと私は思う。投手は一球入魂で最高の球を投げることを心がけるべきだ。それを捕手が正しく受け止めることができたとき、すばらしいバッテリーが成立し球は生きる。投げられた球を正しく受け止めることが出来るかどうかは、偏に捕手のレベル、すなわち心構えと技能、人柄にかかる。子どものように幼稚な捕手の場合、状況の把握もないままに、自分めがけて「投手がボールを投げつけた」と誤解し立腹することともなるのだ。なんとも陳腐なことだ。後逸された球は転々とバクネットに転がり、死に球になる。
「豚に真珠を与えるな」の聖書の喩えかもしれない。
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いま若い世代は、横並びを求める傾向が強い。お隣を基準にしお向かいを心に真似て安心を得ようと試みる。やがてそれらが自分自身やわが家の暗黙の内の決定権を持ち始めるのだ。信念や自信が抜け落ちていることによる。親を拒絶し指導者を軽視する。それを主体性だとタテ社会を否定したがりその分をヨコ社会に寄りかかることで安心を得ようと互いを急ぐ。とにかくヨコなのだ。誤った民主主義平等教育の弊害かと思える。「赤信号みんなで渡れば怖くない」の部類かもしれない。この独自性放棄、真の主体性放棄といえる状況の中では、お隣がこけたら自分もこける結果ともなる。何千尾という弱い魚鰯が球状になって水槽の中を泳ぎ回る姿が思い浮かぶ。一網打尽になって個々の人生を失うことにならないように望みたい。死ぬときは一尾。その覚悟がいとおしい。鯛は深海を1尾で泳ぐ。
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★子ども達へ★
人は死んでお星さまになるのではないようにおもいます。
大切なのは生きているときです。
生きているときにこそ人は輝くことが大切ですし、
そうすることもできそうです。
恒星(こうせい)のように自ら輝くのです。キラめくのです。
君は輝いていますか? あなたはキラめいていますか?
何でもって輝いていますか? 何色に輝いていますか?
何でもってキラめいていますか? どんなにまぶしいですか?
もし死んでから天のお星さまのように輝く人がいるとしたら、
その人は生きているとき、すでに地上で輝いていた人ではないでしょうか。
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一生つみ木をつんで あそびませんか?
ぼくたちは つみ木でビルをつくるとき 1かいを大きくします。
1かいが小さいと 2かい 3がいが つみにくく、
やがてくずれてしまいます。
ひとの一生もそのようです。
しょうがく生のみなさん、しょうがっこう1ねん2ねんせいのときにこそ、
しっかりおべんきょうをして 大きなどだいをつくりましょう。
そうすると 3ねん4ねん5ねん6ねんせい ちゅうがくせいになったとき
大きなつみ木をつみやすいのです。
ちゅうがくせいで しっかりつみ木をつむと、
こうこうせいになったとき つみ木を たのしく
うまくつみあげられそうです。
こうして一生のあいだ つぶれず 高い高いビルをつみあげることができたら、
V! V! V! ですね。
ひょっとしたら はかせにだって なれておもしろいかも・・・
ノーベルしょうだって ゆめではないかも・・・
いいえ、ノーベル賞のようにハデでなくても
そっとひとしれずかがやくじんせいもじぶんのものにできそうです。
めにみえてもみえなくても
じんせいて つみ木ににていて おもしろいじゃん。
わたしは おとなになったいまになって それにきづきました。
あら〜〜っ! おそい!
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こども「ねえ、おかあさん、食事のまえにどうして“いただきます”ていうの?」
母 親「それはね、いろんな意味があるけど一番大切なのはね、ごはんは稲だし、
おかずは野菜だし、お魚だし、牛さんだし鶏さんだし、
みんな生きてるの、命をもっているの。そのたくさんの命をもらってひとは生きてるの。
それらをいただいて生きている。だから食事のまえにはいただきますていうの」
こども「ふーん、命をいただきますってことなのかなぁ」
母 親「そうよ。あなたの大切な命をいただいてありがとう。ごめんなさい。
そのかわりぼく正しいいい子になってあなたの分までしっかり生きるからねって、
感謝のことばなの、約束のことばなの」
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「叱る」は子どもに恐怖心を与え、「教える」は知的進歩を促す。
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○「管理社会」はいい。
×「監視社会」はダメ。
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「品格」=「愛情と敬意」×「伝統を見据える心」かな?
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カネがないからといって悲観することはない。
人は大きく分けて7種類の資産を持っていると思う。
1.一つは現金・預金・有価証券・不動産等の物質的資産だ。
2.いま一つは健康・体力・容姿などの肉体的資産。
3.また誰にも認められる人権などの法的資産。
4.いま一つは知識・技術・資格・継続性などのキャリア技能資産。
5.また、どのような国家・社会・地域に住んでいるか等の環境的資産だ。
6.いま一つは持てる愛情やさしさ・誠実感謝・思想信条等、内なる心の精神的資産である。
7.もう一つは家族・友人・恋人・組織等による人間関係の資産だ。
これらの総和が個人の資産高ということになり、その幸福を守り形成する。
(※例えば今風にゲーム感覚で上記7項目に10点満点法で点数をつけてみるのも一興かもしれない。
1=7点 2=7点 3=9点 4=7点 5=8点 6=8点 7=9点 総合55点
55点÷7=7.86点/10 といった具合である)
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「80%の正しさと、20%の誤りと」…………おい、民主主義
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民主主義よ、平等の挙げ句に個人の生きる原動力「気力」「活力」を萎えさせることがないように・・・・・
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人権・平等を基盤にして福祉国家もいいけれど、汗して働く者こそが恵まれる国家であることが重要だ。
そうでない限り、国家は活力を失い衰退への階段を一歩一歩下りてゆくことになる。
衰退した国家には福祉などありようもない。
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「親は子どもの友だちでなければならない」なんて真しやかに言う人がいます。しかし親は友だちになってはいけません。親は、子どもの親であればいい。もし親が友だちになったら、親がいないことになってしまいます。また親は子どもの前で道化師になってはいけません。子どもの機嫌をとる必要はありません。子どもは親をこそ求めています。「叱られてもいい。もっと親をちょうだい」と………
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宇宙生成に始まって、アメーバーから伝承されてきたこの命…………われわれの直系先祖は誰一人、その伝承を断たなかったということですね。全員が命を運んでくれた。だから<君>がいます。<私>がいます。それぞれの時代、それぞれの環境の中で、大変なご苦労があったに違いありません。お一人お一人に、心を込めて「ありがとう」です。その意味でぼくたち私たちはみんな仲間です。
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教育の基本は、自由の中にあっても何者かであり通せる人間を育てること。
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◆誕生日に◆−あなたが生まれてくれたから
あなたが生まれてくれたから あなたに会えました。
あなたが生きててくれたから あなたに会えました。
ありがとう。
あなたが生まれてくれたから あなたを思えます。
あなたが生きててくれたから メールを打てます。
ホームページもお読みいただけます。
きっとみんなお互いが 「生まれてくれてありがとう」なんだね。
「生きててくれてありがとう」なんだね。
戦争なんてすんなよ。
人殺したりすんなよ。
私は決してお金持ちではないけれど、
私がもしもどんなにお金持ちであったとしても、
あなたが生まれてくれなければ 私はあなたを思えない。
生まれてくれて ほんとうにありがとう。
あなたが生まれてくれなければ
今 私の心は何で埋め合わされていたでしょう。
つまらぬことや邪悪なことでも思いめぐらせていたかも知れません。
(送信メールより)
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もうイデオロギーは要りません。
「いのち大好き・にんげん大好き」
人類はもう一度そこから出なおす必要があるようです。
イデオロギーのために、過去どれだけ多くの命が抹殺されてきたのでしょう。
今後もどれだけ多くの人が、その絶望を通り過ぎなければならないのでしょう。
(送信メールより)
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社会は下から見た方が汚れや歪みが見える。
なぜなら下は自らが痛みを経験出来ているからだ。
下から見れば社会の汚れや恥部が見えるのだ。
上に立つ人の隠された股間やパンツのシミだって見えるかも。
いま君が社会の下積みにいるのならチャンスだと思うね。
身の上を嘆いているよりしっかりと見る目の角度を獲得するときだ。
自分の胸に焼き付けるときだ。
そうすることでこれからの人生
少しでもみんなが痛みを減らす人間らしい知恵と生き方を、
獲得・提供できるかもしれないと思うね。
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ごちゃごちゃなんだ。整理しないとね。
男も女も人間は同権だ。
しかし、男と女は異なるんだよね。
神様がそうしたんだから。
宇宙がそうしたんだから。
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人生にはまさかの坂というものが意外に多い。
すなわちわれわれの想像力がいかに乏しいかということだろう。
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いまこの国には2種類の女性がいる。「男」になりたい「女」と「女」でいたい「女」だ。
「女」でいたい「女」は天に素直で可愛いよ。大好き!
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プラスとプラスは引き合わないよ。マイナス同士も引き合わない。
プラスとマイナスが出合ってこそ電気は活きる。
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「男と女……愛の形」
男と女の愛の形は、100種類、いや1000種類以上あるのだろう。戦後民主主義下の夫婦では男は外で働いて、余暇には家庭内サービス掃除洗濯も手伝って当然とするケースが目につく。男もそれを世の風潮だからと受け入れ、土日には主夫?に変身するのがよい亭主だと信じている向きも増加した。両者が納得しているのならそれでいい。しかし家庭内の仕事に従事した時間とエネルギー分、男は外での仕事についての勉強時間は減るわけで、結果として外での能力は次第に低下する。会社での昇進昇級は遅れをとることにもなろう。それを家族みんなが認識し、納得しているのであればそれもそれでいい。第三者が批判することではないだろう。ただ家族が夫の昇進の遅れ、昇給の遅れに不平を言うとしらそれは夫への期待が大きすぎて、当たらない。
そうした夫婦間のありように対して、「お父さんは外のお仕事にこそ力いっぱい頑張って頂戴。家庭のことは私が精一杯頑張るから・・・」といった妻もある。男と女は異種だから分業がふさわしくその方が効率もよいという思い方だ。台所に立つ夫を喜ばない妻もいる。「私の領域をおかさないで・・・」ということかもしれない。
既婚男女に限らず、果てしもなく「愛してほしい」という受動的欲求型、言い換えれば「むさぼり型」の人もあれば、「愛してこそ自分の存在が確認できる」という主体的積極型もある。又そのパーセントは知るよしもないが、一人の中にその双方が内在する、と考えるのが正しいのかも知れない。しかしその按配の割合は人により大きく異なるようである。「優しすぎる男は生理的に拒絶反応を覚える」という女性も結構多い。「愛される」「愛する」の比率に平均をとって50%−50%であれば納得しようというワリカン平均型もいれば、愛は2分割の「算数ではない。それでは人間性が失われてしまう」と感じる人がいてもいい。男にリードされたい女性もいるし女性にリードされたい男性もいる。「生涯側にいてくれるだけで自分は幸せ」と心華やぐ人だっているかも知れない。尽くすことで幸せという代償を要求しない型もある。それこそがバーター取引を伴わない最も純粋な愛の形なのかも知れない。
要は、男女間の愛の形は基本的にお互いの〈納得〉なのだ。そしてお互いに納得をもった男女のみがその幸せを得ることに至れるし、愛の形を継続することも可能なのだ。
誰であれ自分たちのスタイルをこそ絶対的唯一のものだなどとと思い込み、他のありようを批判するのは傲慢、視野狭窄ということになろう。この世のこと、ことに男女の関係に絶対など到底ありえ得ないのだ。それは神の采配、大自然の支配する領域なのだ。
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ある意味で、人生は川下りに似ている。
傲慢の舟は岩に衝突するまで気づかない。
もっと傲慢な舟は衝突してもまだ気づかない。
賢明な舟は行く末を見通せる舟だ。
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反省がなければ、進歩がない。
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正しい傲慢はいい。しかし間違った傲慢は、もう救いようがない。
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人は今日、今、すぐにでも輝ける。
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母は娘の最後の味方であれ。
父は息子の最後の味方であれ。
正しいか否かは後のこと。
夫は妻の最後の味方であれ。
妻は夫の最後の味方であれ。
正しいか否かは後のこと。
愛は人が人として生きる
最期の酸素。
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他人の言動に左右されないがいい。
自分の言動のみが自分の価値を決定する。
自覚を持ってよく吟味し、自分で決める。
人の価値を他人には決定出来ない。
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社会的にある一部の人たちを優遇することは、
とりもなおさず他を冷遇することになる。
人にやさしいと見えるその行動も、
時として他に負担を強いることにもなるのだ。
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上手なおしゃれて何?って思案している君にこういう例えはどうだろう。
音楽の世界に“ドミソ”とか“ミソラ”とか、耳に心地よく響く和音ていうのがあるじゃない。
それらは音のコーディネイトだが、それを衣装で醸し出す。それがおしゃれなんじゃないかな?
どうだろう? ちょっと考えてみて・・・
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繰り返しになるかもしれないが・・・
人の正しい生き方は、1枚の布を織るのに似ている。
「理念」の糸を縦糸に、「現実」の糸を横糸に、その交点を求めつつ生きる。
織り込んで、織り込んで、織り込んで、
西陣織か、ししがしら、または黄八丈。きれいだね。みごとだね。
人生て、ステキだね!
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お元気ですか?
かぜなどひいていませんか?
ことしも終わろうとしています。
すべては過ぎ去ってゆきますね。
ことし、どれだけ人を愛せたでしょうか?
幾度感動に胸熱くなりましたか?
すべては過ぎ去ってゆきます。
人生なんてもうすぐ終わります。
ことし、人生にどんな輝くメモリーを残せましたか?
それともメモリーなど要らないよと
通り過ぎる風の中であなたはつぶやくのでしょうか?
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早速に、ホームページ「2004年初日」サイトにアクセスしてくださり、ありがとうございました。加えて、丁寧なご感想・ご批評をまで頂き感激しています。目下、こんなに細やかにご批評をくださった方はありません。殆どは「見たよ−」でお仕舞いですし、それすら返ってこない場合も決して少なくありません。
未明に起き出、眠気を我慢しながら寒さに耐えつつ写真を写した本人にとりましては、
苦労した作品だけに愛着があるのは当然でも、第三者にとりましては、何事についても言えることですが、
結果の部分だけを見て苦労の部分が見えにくいので、とかく上辺だけをサッとさすって過ぎ去るようです。
振り返れば、こう言う私自身もとかく他に対しては、平素そういう人間であり、
そういう行動を繰り返していることが分かります。
この移り気な表皮的私達の生活であれば、通り過ぎる己が足を敢えて踏み留め、
人様のご苦労にも思いを馳せ、念を絡み込ませることも大切と肝に銘じています。
文学も詩も、思いやりもそこから始まるのかも知れません。その意味で、文学も詩も、他の芸術も、
自他に対する思いやり、敢えて踏み留める足から生まれるのだとも言えそうです。
(送信メールより)
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敢えて踏みとどまれ。
たった1本の武器そのスコップで
深く掘れ。
汲んでも果てない
地下の清水をこそ汲み上げよう。
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本当に価値あるものは数字で測れない場合が多い。
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私たちにとって一番大切なこと。呼吸をしていること。
●
早速に小説「神々の死とパン」をお読み頂き、面倒なご批評・ご感想を書き留めお送りくださいましてありがとうございました。
私にとりましては「なみなみと涙が湧いて……」とのお言葉こそが、最高にうれしいご批評に思えます。と言いますのも、作為的な言葉・映像に満ち溢れたこの社会にあっては、理屈ではない涙こそが、全人格的な偽りのないご批評であるとかねてより考えているからです。
科学万能・論理万能とでも言いたげな現代社会、人々は情緒不足に陥ったせいか泣くことがめっきり減ったように思います。しかし私は、泣けることこそが「人間の条件」の大切な一つであると心得ています。
私のホームページの「随筆ニッポニアニッポン」の中に、
いま、ロボットの人間化。人間のロボット化。
ロボットは目から水をこぼすことは出来ても、泣けない。
人間とロボットのちがい。……泣けるのか。泣けないのか。
泣けない人間は、人として重要な部分を欠落している。
という一節があります。
あなた様にお会いしまして、決して「ロボット人間」又は「人間ロボット」ではない「人間」にお会いできた気持ちがし、この一期一会を貴重なものと受け止めています。あなた様のお書きになった「詩」もさることながら、ご本人の中に生きた「詩」を拝読させて頂く気持ちがしています。
たとえ世の常からそれることになりましても、又、“古い”との誹りを受けることがありましても「泣くことが出来る人間」、又、あなた様からのメールにありましたように、人様へ「座布団を譲る心配りの出来る日本女性」を維持して頂きたいものと心から願っています。
世の常との軋轢に耐えることは“しんどい”ことです。しかし、ここにも人間らしさを維持したく世の常に媚びようとしない“しんどい”人間が一人いることをもご考慮頂き、ここ(地上)に在ります限り、人間の煌めきをこそご継続くださいますよう希望して止みません。
この命が終わり、例え五たび全球凍結が地球を襲い人間の営み全てが無に帰したかに見えるとき、なお残るものがあるのだとしましたら、それはただただ主無き煌めきに違いないものと信じています。
(送信メールより)
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無言の中の詩こそが、最も純粋な詩である。
それを言葉や文字にしたとき、ブレを生じて純粋を離れる。
本物の詩は言葉のずっと奥、実存にしか存在しない。
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「企業は人なり」といいます。ならば
「国家も人なり」でしょうし、
「社会も人なり」でしょう。
「家庭も人なり」です。
それから・・「人も人なり」かもしれません。
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支払い経費なしで利益を生み出すことは至難だ。
マイナスを避ければ、利益には至れない。
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健康な精神は怠けることを喜ばない。
自分の命をより大きく深く生かすことをこそ喜ぶ。
にもかかわらず怠けたがるぼくたちは、何だ。
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賞状はいらない。
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生きた証?
………う〜〜む、どうでもいいけど………あってもいい。
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近づきすぎると、判別できにくくなる。
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大人たちはとかくリンゴを「赤い」と答え、うなずき合います。
しかし、リンゴは「薄い黄色」もしくは「白だ」と答える子どもがいたら、
「おお、中身を見てるね」と、私はその子にこそ拍手喝采を贈り
未来への希望を託せます。
(送信メールより)
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豊かさの一つは、心の中にどれだけ多くの「法」を抱けているかということである。
豊かさの一つは、自分と他人をどれだけ愛せる心を抱けているかということでもある。
又、豊かさの一つは、子どもを何人育てたかということだ。
例えば子どもを3人育てたとしよう。1人に3000万円と愛情をかけたとしよう。
この夫婦の豊かさは少なくとも〔預貯金額+所有不動産+3000万円×3+内面〕ということになる。
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●ね●
あなたからのメールの最後によく語られる言葉
・・・「ね」
○カゼにくれぐれもご注意くださいね。
○お食事はきちんととってくださいね。
○温かくしておやすみくださいね。
○またメールさせていただきますね。
○お仕事あまり無理なさらないでくださいね。
○その願い叶えられればよろしいのにね。
数え切れないほどの思いやりの「ね」があります。
日本語の中で私はこのやさしい「ね」が、一番好きです。
乾いた心の中に一粒落ちる清水のしずく。
一粒輝くさくらんぼ。
一片舞い込むさくら花。
涙で見送るオレンジ色の夕陽。
病に伏した日の遠い母さんの子守唄。
そう。また、あなたの・・・「ね」を聴かせてください。
やさしいその一文字で、疲れも、悩みも氷解して、
男達はぐっすり眠れそうな気がするのです。・・・
・・・・Z-Z-Z-ZΘΘ>>・・・Z-ZΘΘ>>
(送信メールより)
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2004年大晦日、NHK紅白歌合戦を頭から尻尾まで観た。圧巻だったのは森山良子の「あなたが好きで」である。特筆できるのはこの1曲だけだったと私は思っている。
それにしてもモーニング娘の踊りながらの歌唱にはいつもながら感心させられる。このグループは中学生から二十歳そこそこまでの13人の女の子達で構成されているそうだ。歌はソロではないから大勢のフレーズごとのかけ合いが交わされる。しかもテンポの速い曲が殆どだ。その歌と踊りのからみの中で曲は進行する。誰一人とちったり、ステップを踏み間違えるのを見たことがない。学生時代運動会用にフォークダンスを繰り返し練習させられても覚えられず、背後の級友の足をふんづけた私など、彼女達の踊りは奇蹟を見る思いさえする。きっとレッスンには並々ならぬものがあるのだろう。しかし、それをおくびにも人前に見せることがないのはブロだ。彼女達が舞台で見せるのは、完成と笑顔と夢である。お見事!としか言いようがない。つんく氏プロモートということだが、これだけ訓練された少女のグループは、国外にも存在しないのではないか。まさしくクール・ジャパンの一つだ。
2010年、AKB48がモーニング・・に取って代わる勢いで台頭、人気を得ている。このグループも場数を踏むとともに近ごろは上達したと思う。熟達とか完成は遠いが若い少女達の一生懸命が力強く伝わってくる。
AKB48にしろモーニングにしろ、可愛いから、きれいだから……に安住せず、励む若い彼女達に心いっぱいの拍手である。可愛くもなく、きれいでもなく若くもない自分が励みもしなかったら、一体何を残せるのか、問いかけられている気がしてならない。
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若い女性たち、“おねだり”を捨てるがいい。
大自然から与えられた その両手を生かせ
その両足を生かせ
その両乳房を生かせ
その心を生かせ
その知を生かせ
それが女性の真実、女性の復権。
復権は他から与えられるものではなく、
自らのハートから飛び出す一つ一つの行動によって確立するもの。
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人生のVサインは、
労を上手に怠けたり他人に転嫁したりして
楽をすることではなく、
自分を役立て与えられた命を<生かす>こと。
自分が存在した意味を増やしていくこと。
大切なのは、
<小我>ではなく<大我>のこと。
<小我>を<大我>へと昇華していくこと。
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食事に入るとき、欧米人の多くは十字を切る。
日本人は手を合わせて(ときには手を合わさず)「いただきます」という。
料理を用意してくれたひとへのお礼の言葉と解釈されている向きも多いようだが、
「いただきます」には、それ以上の意味がある。
それはこれから食する〈いのち〉に対する「いただきます」なのだ。
人は動物又は植物、他の〈いのち〉を摂取しないでは生きられない。
いわば他のいのちの犠牲の上に私達の命は成り立っているのだ。
「いただきます」はこうした他のいのち奪取、殺戮への詫びと感謝の言葉である。
〈私〉の体を深くのぞき込んだとき、
膨大な〈いのちの参画〉が浮かび上がってくる。
〈私〉は〈私〉であって〈私〉ではない。
〈私〉に参画した無数のいのちの集積が〈私〉なのだ。
だから、
〈私〉の真実は無数のいのちの真実なのだ。
〈私〉の不実は無数のいのちの不実へと繋がる。
〈私〉が愛することは無数のいのちが愛することだし、
〈私〉が輝けば無数のいのちが輝く。
〈私〉の思惟と行動は無数のいのちの思惟と行動であり、
〈私〉と共にぞろぞろと命は歩く。
私達は奪ったいのちへの重責を負っている、ということだ。
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さて、コンピュータ・ウィールスに罹っているかも知れないのでメールの発信を自重しておられるということは、私のホームページへのアクセスも自重してくださっているのでしょうか。HP14作品目の「童話・一粒の種の花」もお読み頂けていないわけですね。少しだけいい作品になったかなと、ひとり自画自賛しています。暗いと言えば暗いかもしれませんが、暗いものに真実味のあるものが多い気持ちもします。
「恵みにはね、プラスの恵みとマイナスの恵みがあるんだ。生きているものはみんな、与えられたそれら二つの恵みをつなぎ合わせて、自分色の花を咲かせることが大切なんだ」と、じゃり石の道に落ちたアサガオの種はつぶやきました。・・・・・(抜粋)
私の文学の友・よき読者、あなたにお読み頂くときを楽しみにしています。
(送信メールより)
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親の教えは「生前贈与」
先生の教えも「生前贈与」
君を豊かにするため両手にいっぱいに戴くがいい。
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思いますには・・・
大きく事業に成功するか、億単位の遺産相続でもない限り、
あちらに出費すればこちらに足りずという経済的にタイトな状況は、
一般家庭どこも同じなのでしょうね。
大人も子どももそうした中で生きてこそ、緊張感を失わず、
(アホにならず/人生脱線せず)生きられるのかもしれません。
今年で阪神淡路大震災から10年になります。
ようやくこの8月で250万円の震災借入金返済が終了します。
120分の1の家屋の傾きをも含めて、
震災の悲しみやつらさを少しは経験することができました。
亡くなった方やそのご家族の哀しみには到底及びませんが、
自分が<マイナス>を得たことで、
傷ついた人たちとちょっぴり心を重ねることも学べ、
少し“やさしさ”に近づけたような気もしています。
与えられる数々の<マイナスの恵み>こそが、
ぼくたちの心の盲目、それにまつわる無関心、無感動、忘却、
また冷淡、怠慢を防いでくれるのでしょう。
<プラスの恵み>に加えて<マイナスの恵み>も与えられ、
今、それこそが、ぼくが幸せになるための形なのだろうと思っています。
そして、この二つの恵みを心に確信できたとき
人は人生に新たな<感謝>と<自由>を獲得することが出来るのだと思います。
日常の周囲から学ぼうとする燈子ちゃんの意欲には驚嘆しますが、
2歳の燈子ちゃんのみならず、大人だって、
生きてさえいれば、こころの目を閉じさえしなければ、
身の回りあれもこれもが勉強なのかも・・・という気持ちがしています。
(送信メールより)
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人は傷付きながら生き、癒されながら生きる。
愛しながら生き、愛されながら生きる。
だから、ステキ。
そして「ありがとう」と感謝して
人生の扉を閉じることが出来れば、涙あふれて最高だ!
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人間の幸せは二つの部分から成立するようだ。
一つは腹いっぱい食べて異性と交わって熟睡してこどもを育てるという動物的部分である。
もう一つは思考し哲学し社会を視野にいれて行動出来るという人間ならではの高度な部分だ。
この両方に満たされたとき、初めて自らに納得でき人間は幸せにたどり着けるように思える。
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今年も早、年賀印刷の時期となり、理念とは離れ、世の生業(なりわい)として歳末の折り込みチラシ印刷の予定などを組まなければならない時期を迎えました。しばらくはご無沙汰するかも知れません。それが終われば、私に“煩悩”を問いかけてくる百八つの鐘の音を聴く大晦日となります。
いま、京都・清水寺で夕刻6時半から、紅葉のライトアップを実施しているそうです。「出かけて秋を体験したい、写真に収めたい」と思いながら、ズルズルと日を重ねているこの頃です。
きょうは中味のないメールになりました。せめて最後に、先日私のホームページ【随筆・水のほのお】に書き加えた3行を記します。
花は咲けばいい
名前など あるもよし
ないもよし
「肩書き」「形容詞」「修飾語」を偏重する世の中にあって、<いのち>そのものを注視したい私の思いを込めて書いた言葉です。
健やかによい年の瀬をお過ごしください。「理念」と「生業」の重なるところ<交点>を日々の中に求めつつ、私ももうひと踏ん張りするつもりです。楽しいです。
(送信メールより)
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先日、ダイアモンドシティーに出かけ、映画『ザ・コア』を観てきました。
とかく人々は空を仰ぎ、月に火星に又、その他の宇宙空間へと思いを投げます。ロケットを飛ばし、人工衛星を打ち上げ………
しかし私たちが住む地球の内部に向けてはそれほどに焦がれる思いは持ち合わせていないようです。私たち個人も他人の容姿や言動には敏感であったりするのですが、自分のそれには無頓着、あまり目を向けたがらないようです。その意味で『ザ・コア』は<内部>に目を向けた珍しい映画で、作品の中身はともかく、そのこと自体新鮮な映画だと言えるでしょう。
(送信メールより)
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今日もまたメールが長くなってしまいました。すみません。
今日あなたにお贈りしたい言葉です………「愛は全てを繕う」
お贈り頂いたテレサの言葉もいい言葉ですね。
メールがご面倒なときにはいつでもお電話ください。電話、メール、ご来訪、いずれでも歓迎です。文学やら人間やら、この世の諸々を語り合うのは、私にとってはおいしいご馳走を食す以上に楽しいです。
自宅電話・FAX 072−782−1●●1 です。
(送信メールより)
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気まぐれに2500円で買ってきた鉢植えの小梅なんだ。
「実」まで付けなくていいのに。
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勝負に勝つだけが勝ちではない。
愛し愛されることを得ることも勝利したことだ。(あるTV・CM)
そしてその両方を得るという人生だってある。
●
わが子を好きですか? 親が好きですか?
人の縦の繋がりを大切にしている家族(人々)は、その<伝承>(精神的遺産相続)の量が多く子供が大きく育つことが多いようです。
伝承を軽視した親の子、又は自らが伝承を拒絶した子供は当然乏しく育ちやすいようですね。
物質的遺産相続においても全く同様で、相続を放棄した子供の相続額はゼロです。
親を信じなさい。
親に学びなさい。
子供に伝えなさい。
先達を敬いなさい。
先達に学びなさい。
物であれ心であれ遺産相続はガッチリ戴きなさい。
そうすればぼくも君も、もっと豊かになれるでしょう。
●
●親の仕事●…火吹き竹
@子どもには衣食住を約束すること。
A子どもには教育を約束すること。
B子どもには自分を押しつけることなく
子どもの中に神又は大自然より授かった
個性の火種を探し当てること。
個性の火種が見つかれば
直ちに火吹き竹を取り出し
自分の胸一杯息を吸い込み
アシストすべく力一杯火種を吹くこと。
火種が炎となって燃え上がるまで吹き続けること。
神又は大自然との共作を行動すること。
※火吹き竹=火を吹きおこすときに用いる竹筒。
一端に節を残して小さな穴をあけてあり、そこから息を吹きつける。
●
愛する親からの<伝承>には、<記憶>は殆ど必要ない。もっと深く子の<いのち>の中に直接伝えられるのだ。
●
もう親はアシスト役だ。ゴールするのは子どもたち、君なのだ。
(子どもたちへ)
●
そのおバアちゃんは94歳。もう力衰えて一日の殆どをベッドで眠っている。声を掛けても滅多に目を開きはしない。しかしズレた布団を直して上げると、目を閉じたまま「ありがとう」とつぶやく。何を語りかけても目を閉じたままのおバアちゃんだ。もう一度布団を直してあげると、やっぱり「ありがとう」とつぶやく。
おバアちゃんの人生に残されたたったひとつの言葉「ありがとう」。ぼく、おばあちゃんに倣いたいです。おバアちゃんに倣って、ぼくもいつの日か人生最後の言葉が「ありがとう」であれますように・・・・・・・
●
誕生は人生への入学式。
何かを学んで・・・・・
死は人生からの卒業式。
「卒業おめでとう」なのだ。
●
ちゃんと結婚して
ちゃんと子どもをもうけて
まじめに働いて
家まで建てようとしていますね。
立派! それこそが、親孝行というものでもあります。
親の肩を揉むことが親孝行の代名詞だなんて、
それが親孝行なら簡単すぎです。
(子どもたちへ)
●
肝心なことは・・・
「若い二人ならではの人生絵模様を描くこと。それを<賢く>実現していくこと」です。
父さんはあなたがた二人を信じています。
だから、2,3歩後ろを歩きます。
振り返れば声が届く距離。
声を掛ければ聞こえる距離です。
それが子ども達と親の位置関係だと思います。
(子どもたちへ)
●
太宰治は言いました。「富士には月見草がよく似合う」
「マリアはよき方を選びしなり」………そしてマリアには、かいなに抱かれた幼子の姿がよく似合うように思います。時代がどう変わりどう流れましても、最も輝くのは人の命であることに変わりはありません。近い将来そのやさしいかいなに幼子を抱いたあなたにお会い出来たらと、遠く遠くより願っています。
(送信メールより)
●
内的作業と外的作業、若い日にその両方が出来る自分を夢見ました。一方だけなら出来る人は大勢います。しかし、人間がその両面を持った存在であるのなら、おのずと自分の完成もそこにしかない、そう思えたからです。そして今、そのいずれをも捉えかねている私がいます。(toho!苦笑;)
世に媚びることを厭うわれわれ創作的人間は、自分で起業するのも一つの手、面白いかも知れませんよ。
(送信メールより)
●
「東京砂漠」(歌・前川 清)ではありませんが、
ある意味では砂漠のような社会に在って、
私にとってあなたはオアシスのような存在です。
社会の貧しさはとかく収入の額で人を評価しようとしますが、
砂漠の中のオアシスはいま月収50万円を稼いでいる人より
もっと存在価値、貢献も大きいと私は思います。
収入を稼げば人間偉い訳ではありません。
秀でた野球選手、サッカー選手は大金を稼げますが、
秀でた水泳選手、砲丸・槍投げの選手は稼げません。
このように社会的価値があっても金銭的には評価をされないままに
社会の隅、砂漠のあちこちに立ちつくしているのがうかがえます。
本物の宝石は誰なのでしょうか??
収入が少なくても、小さくならないで生きたいもの、
大きく胸を張って個性を輝かせていきたいものです。
人生は、もうすぐ終了するようです。
(送信メールより)
●
世の中に吹く風はまだまだ冷たいよ。
どうか・・・
体、風邪ひくな。
心、風邪ひくな。
(大切なあなたへ)
●
人はときには哀しみながら生きることも大切です。
●
結婚をするなら、ぼくはスカートを穿く女性。
●
1人だけの意見なら思いこみだ。
5人集まればノイマリティー。
100万人の集団になれば常識になる。
ひとりぼっちは930ミリバール
強風にさらされつづけてさびしいものだ。
●
<常識>を選べば<常識>が得られ、
<いのち>を選べば<いのち>が得られる。
<おカネ>を選べば<おカネ>が得られる。
そして、そんなふうに自由選択の可能な社会は基本的にいい社会だ。
●
人間は機械ではないので、疲れます。
疲れには、30秒で回復するものもあれば、
3分、30分、3時間で回復するものもあります。
ときには3週間
3カ月
3年
30年かかる場合もあるようです。
いずれにしても、生きているから、人間だから疲れるのです。
理由があって疲れるのです。
仕方のないことです。恥じることではありません。
終日ゴロ寝して、ポテトチップスでもかじって昼寝して、
疲れた自分にとことん付き合ってあげてください。
その時間もまた、大切な人生の一部ですから。
●
フジテレビで「プライド」というドラマがあります。
木村拓哉、竹内結子、石田ゆり子、中越典子などの出演で、某会社所属のアイスホッケー部の男達とそれを取り巻く女性達にまつわる物語です。
まだ初回が終わっただけですが、物語には「我れがわれが」の今風キャピキャピギャルと、彼女達とはハートを異にする「古きよき時代の女性」というのが登場します。それは闘って、闘い続ける男達をじっと待つことも出来、男達が体内バッテリーを使い果たして空っぽになったとき、やさしいハートで再び充電してくれる心ゆたかなハートの女性達・・・です。
この「古きよき時代の女性」・・・ あなたとも重なるところがあるように思いますし、また私が語った「・・・ね」を語ることの出来る女性とも重なるようです。それはまるでトキのように、今、日本から失われようとしている惜しまれる<心に厚い女性達>です。
月曜:夜9時、もし時間がありましたら、ご覧になってみてください。脚本は「高校教師」の野島伸司です。
(送信メールより/テレビ放送は終了)
●
きっと“生き甲斐とは、愛する者のために責任を背負い込むこと”です。
逆に言えば、背負った責任の大きさが、
愛情の大きさのバロメータになるとも言えそうです。
どんなに耳元で「愛してる」と囁いたって、
もし責任を背負い込むことを避けている人なら、
その言葉は一度疑ってみる必要があるのかも知れませんね。
愛は苦難をも背負い込み、人を「前へ!」と促す底力です。
(送信メールより)
●
生き甲斐の一つは自分の足で立つこと。
自分の足で立った自分が他の幸せへとつながっていると確信できること。
●
デッカク負けたって? いいじゃないか。
メゲたっていいじゃないか。
負けて、メゲて、
這いつくばった泥んこの中にこそ、輝く人生の<宝石>が埋もれているんだから。
そこから始まる、深く輝く道もあるようだ。
●
まるで童話の朝日に向けて飛ぶタキシにも似て、
元旦早々私は初日を撮影に出かけましたが、
「いま大阪港の夕日が美しい」ということを聞き、
今度は、防寒着に身を包みJR→地下鉄を乗り継いで
先日天保山に出かけて来ました。
潮風に吹かれつつ待つこと約40分・・・
念願の夕日は雲とガスに覆われ気味で
末尾の添付写真が精一杯でした。
これでは納得出来ないので
近々、再チャレンジする予定です。
それにしても初日といい、大阪港の夕日といい
私はなぜこんなに太陽に執着するのでしょう。
自分でも不思議ですが、ひょっとして地球は太陽の惑星・子ども、
だから私も太陽の子どもであるからなのかも知れません。
母さんに憧れて、ばあちゃんに憧れて、遠い先祖がなつかしくて
そっと出会って、話したくて・・・
(送信メールより)
●
「得る」はいい。
「失う」はよくない。
しかし「捨てる」はいい。
●
人は愛する者を足場に学んでいきます。まず正しく愛する者の行動に学びたいです。愛する者の言葉に耳を傾けましょう。
●
いかに男にプレゼントを買わせるか、荷物を持たせるか、夫に家事・育児を負担させるかではない。女性として妻として人として、いかに自分が行動するのかが女性としての基本でしょう。自らをどう輝かせていくのか、その自由と行動こそが「女性の権利」「女性の復権」というものなのだと私は思います。
●
彼女の腕が太いと嘲るのはよそう。
3人の子供を抱き上げて育てた腕なのだ。
スーパーから、毎日5人分の買い物を提げて帰った腕なのだ。
十数年、夫と子どもたちに愛を行動し続けた腕なのだ。
バクテリアの時代から連綿と続いてきた<いのち>を、
未来永遠へと繋いでいる腕なのだ。
この地上に残りここを支配していくのは、
結局、作られた細い指、腕ではない。
「実(じつ)」を伴って、力強く太い腕なのだ。
●
名あるもいい ないもいい
色・形いずれでもいい 「自分自身の花」結べばいい
いのち輝けばいい
●
子どもたちには「欠乏」という大きなプレゼントをしよう。
それはやがて子どもたちに「感謝」の心と「自主性」をプレゼントすること。
●
人は元来冬を生きています。その寒さを防ごうと文明を築いて来ました。しかしいま物質大国では多くを着込み、暖房を効かせ過ぎて、かえって蒸し暑く不愉快な状況があります。人が幸せになるために、こんなに多くの物質は要らなかったのかもしれません。過剰の部分は不足している人たちに譲れば双方がしあわせになるのかもしれません。部屋の中に閉じこもっていないで、暖房を止め、窓を開けましょうか。いまだ厳冬の中、北風に曝されている国々が見えます。泣いている子どもたちが見えます。母はわが子を抱いて、途方に暮れています。
●
力一杯駆けるがいい。しかし、
「ガンバル」ではなく、
「心の恋人との出会い」のために・・・・・
●
大人達は「ガンバレ!」「ガンバレ!」と言うけれど、“ガンバル”は基本的に自らに逆らって不自然なんだ。ガンバらなくていいと思うよ。それより個性に応じて目指したい「自分の星」を胸に獲得することだ。子どもたちはその願いの星に向かって一直線に飛んでいけばいい。それを子どもたちにもたらすことが、教育の始まりだとぼくは思うね。
「みんな輝きたいね。君は何でもって自分を輝かせたいと思う、人の役に立ちたいと思う?」
「そうか。・・・・・それを実現するにはね、○○、△△を身につけることが必須条件だ。近道だよね」と語りかけることだと思うよ。
仕事自体より先に通勤で疲れてしまうサラリーマンのように、耐えること、我慢することで体内エネルギーを使ってしまうのは効率のわるいことだ。“ガンバル”人は“好きで没頭する”人に勝ち目はないと思うよ。
●
人が心の中を“愛”で満たすことが出来たら、“頑張る”の文字は不要になるのかもしれない。
●
燃え上がる心の自然性を〔常識〕という箱の中に閉じ込めて鎮火を待つということを繰り返していると、やがて心は燃え上がることを忘れて、人は「屍」へと近づく。
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人生熱くなった者が得。
感動できた者が得。
●
心底愛したことがありますか?
この人となら死んでもいいと思ったことがありますか?
この人と新たに生きようと思えたとき
闇を貫いて夜明けのメロディーが聞こえ始めるようです。
死ねないから生きられない。
中途半端に生きようとするからまっすぐに生きられない。
そんなふうに思ったことありませんか?
(送信メールより)
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「心から……」という言葉がある。
文化・文明も人の「心から」出発してゆかなければ、人間を遊離する。
科学……心に通じていますか?
政治……心に通じていますか?
経済……心に通じていますか?
教育……心に通じていますか?
どこかで、又は何かで断絶させてはいませんか?
●
先日のあなたからのメールに<神>について、
また<宗教戦争>について触れられてありましたので
今日はのっけから堅く<神>について少々・・・
すごくおおざっぱに言えば、
私は<神>は、富士山のてっぺん、いや、まだその上方に在って、
(宇宙から見れば下方であってもよいのですが)
西欧を中心のキリスト教であれ、
中東を中心のイスラム教であれ、
インド、日本の仏教であれ、その他であれ、
人々が平地から富士山のてっぺに至るまでのルートのことを宗教、
頂上を仰ぎつつそのルートを歩むことを信仰というのだと解釈しています。
だから、いずれのルート(宗教)をたどっても
本人が途中でへたばらない限りは、
富士山のてっぺん程度には近づくことができるわけで、
「表登山道(ルート)のみがてっぺんに至るただ一つの真理の道」
「裏登山道(ルート)のみがてっぺんに至るただ一つの真理の道」
などと我田引水し、言い張り、それを出発点に争うなどは愚の骨頂だと
言わなければならないでしょう。
表であれ、裏であれ、六根清浄を口ずさみながら
互いに敬意を持ち、友情を抱き合うことこそ
求道する者の、正しい姿だと私は思います。
宗教も平地に在る(又は平地へと引きずり降ろされた)とき、
それはまたまた哀しいアインシュタインの相対性原理の世界、
物理の世界の産物へと墜落・堕落してしまうようです。
それはもはや宗教とか信仰とかと呼べるしろものではなく
「われが」「われが」のイデオロギーの一つと化してしまいます。
その結果宗教戦争にもつながったりするようです。
宗教にたずさわる人々のもっと広い視野、
エゴを離脱した客観性こそが切望されるところです。
10年ばかり前のことでしょうか、京都の寺々が
市の徴税に反対して、来観者に拝観拒否という行動に出たことがありました。
これはとんでもない宗教の私物化
宗教者の取るべき手段ではなかろうと、いまもってあきれかえっています。
(送信メールより)
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イデオロギーのために、過去なんと大勢の人々の血が流され殺されたことか! 「殺される」簡単にそう言うけれど、その際の「恐怖」「絶望」「苦痛」「哀惜」・・・生きている人間には経験がないので分からない。分からないものを他人には押しつける人がいるわけだ。
いま世界最大のイデオロギーはアメリカ民主主義であり、社会主義である。
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目覚めていないと、泣くべきときを素通りさせてしまう。
即ち、自らがにんげんを素通りしてロボットに近づくということだ。
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「一杯の水を最もおいしく飲む方法はね・・・コンビニで販売されているボトル水を買い求めてくることではない。・・渇くことだ。
渇かない者は、本当の水のおいしさを知ることはない。」
●
キタキツネの子別れは親が子を自然の中へ放逐するのだが、厳しい北国の環境の中で、実は老いた親自らが子の足手纏いとならぬよう子を突き離すではないのか。共倒れせず、「若いお前達こそが生きろ! 種をつなげ!」と、自らの孤独死へのルートを整えるのではないか。私自身年齢を重ねるにつれて、そう見えてきた。キタキツネの親こそがいとおしい。やさしく、切ないのだ。
●
私たちは長い長い織物を織ろう。縦糸に貫かれる倫理又は真実。横糸に変わり行く今日の現実を織り込む。・・・美しい絵模様だ。
サッと反物を打ち広げ、黄八丈か博多織、西陣織か阿波しじら、又、ささんざ織り・・・これはもう芸術だ。
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人間の欲望の内、否定されるものは一つもない。ただ昇華なき過剰はよくないのだ。
その欲望を制御・確認するのが本人の内実性であり、それが希薄な場合は取り巻きの目及び刑法が取って替わって抑止する。それらさえ用をなさなかった場合は犯罪に至る。
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神を演じようとすれば、負担が大きくて傷だらけ。
天使を演じようとしても、負担が大きくて泥だらけ。
人間には、人間を実行することが正しいのでしょうね。
やさしく、可愛く、ちょっぴりレベル高く人間・・・・・
それを実行できるキーワードは・・・
自他に対する<愛>なのかも知れません。
(送信メールより)
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あの人たちのやさしさは貧しさの中で培われたやさしさだから、強いんだ。いま日本人が遠ざけてしまった思いかも知れないね。
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いま、ぼくたちの日常には科学だとか文化だとか各種イデオロギーだとか、人の手による植樹が乱雑に生い茂ってしまって、命の始まり「大地」が見えにくくなってしまった。たとえ見えにくいとしてもぼくたちは大地から生えているのだ! それを忘れると何をしても浮き上がり、漂い、大地という真実を離れてしまう。
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「同情は嫌いだ」なんて言うのは、深い悲しみを知らないか、飢えた経験のない者の贅沢なセリフに思えます。とたんの苦しみや飢えの中にあれば「同情」は救いの手であり「感謝」の対象、<神の手>とも見えるものです。
(送信メールより)
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「心」と「誇り」と「主体性」は売却することが可能です。「心」や「誇り」、「主体性」を売り払えば、そこそこまとまったおカネに変わります。個人でも国家でも同様です。敗戦直後、焼土と化したわが国は売る物が無くて、多分にアメリカへの主体性売却の道を選び、歩みました。いまもってその一本道を歩き続けている気がしないでもありません。
「誇り、売るのかね、売らないのかね?!」 国民が決断するところでしょう。今日は堅苦しい話になって大変恐縮です。
「エ〜♪ 心はいらんかェ〜 1カケラ100万円だよ〜♪ 安くしとくよ〜」
●
誠実を尽くし切っても哀しみが残り、
どろんこ合戦を演じても哀しみが残ります。
(送信メールより)
●
作品の深さは、殆ど作者の心の傷の深さに比例する。
●
誠実はともすれば、青空の中の飛行機雲の白にも似た哀しみの尾を引いて残す。
それは、ナイフで切った傷痕の赤にも似ている。
そんなに誠実を研ぎ澄ますと、血雫がたれてしまうよ。
●
淋しいとき、腹の立つとき、哀しいときには、音楽を聴く。同じ曲でいい。5度、10度、20度、50度くらい聴くがいい。だって人々はお酒を5杯、10杯、20杯飲むじゃないか。ゴケにとっては似たようなことだと思うよ。そうして自分の血液に混在させて真っ赤に酔いしれるんだ。
●
どんなに世の中が混沌としていても、
光と影が重なることはない。
光は光、影は影なのだ。
そして存在は光だけ。
影は不在なのだ。
ぼくの人生君の人生光へと辿って
存在化しようか。
●
〔ダイヤモンド芸術論〕
はっきりはしませんが、哲学的に「真理」というのは、例えればダイヤモントの原石のようなものでしょうか。輝きを具現化するには、カッティングとそれを見つめる人が必要なんですね。
およそ音楽にしろ、文学にしろ、絵画にしろ、それぞれに深く「真理・真実」を追い表現しようとするものかと思います。「真理・真実」と言いましても、それはあまりに大きく、人間がそれを捉えようとする場合細切れにして、一つの切り口として捉えるより仕方がありません。
ダイヤモンドを人の目に輝かせて見せようとするときに削って「一面」「一面」「一面」の多面として輝かせて見せるより方法がないのに<酷似>しています。例えば私の好きな作家、ゲーテやドストエフスキー、トルストイやアンデルセン、パスカル、太宰治等々にしましても、それぞれにカットされて輝くダイアモンドの「一面」を担った人々であるのだと思います。また、それら一人一人の各作品もまた多少異なる一面を担ったものであると言えるでしょう。
とにかくわれわれ物書きは決してクリエイターではなく、ダイアモンド職人なのです。人間ごとき創られた者に、クリエイトなんて大それたことは不可能です。
●
結局、優れた文学作品というのは、人間存在又は自然を肯定するものですね。そしてそれは、何も文学に限ったことではありません。
人間個人においてもそうなのかも知れません。貴重なのは否定ではなく、肯定です。
(送信メールより)
●
社会主義であれ、民主主義であれ、およそイデオロギーを信奉しそれを他人に押しつけたがる人たちを私は尊敬しない。イデオロギーは偏りだし、どうせスーパーの食品のように期間限定だ。やがて否定され風化していくものだ。そして、そのときにも私たちに残るのは、大自然とそれを前にした人間に違いない。
●
民主主義はとかく時を浪費する。
時はカネなりというではないか。
時を粗末に使わないことだ。
民主主義のなんと贅沢なこと!
まるで永遠を生きてるみたい。
わが国ではガンの新薬認定に10年かかると言われる。
その間に何人かの患者が失望と苦しみの底で死んでいく。
●
言葉には逆らうことが出来るが、音楽には逆らうことは出来ない。
●
ひっくり返った一匹の虫けらの、わずか残された呼吸の哀しさ・・・・・
こんど生まれてきたら、<永遠のいのち>がいいよね。死なないでいようか。
「ssssss・・・ zzzzzz・・・ ssssss・・・ zzzzzz・・・」
ぼくも殆ど虫けらだから、呼吸が・・・やっぱり哀しいよ。
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やさしさや親切も受け取る側の心境いかんでは、うるさくうっとうしいものと映る。
恋愛関係の終わりも、ストーカーの迷惑行動もこの辺にあるわけだ。
やさしさや親切が輝く宝石となるか、投げつけられる礫となるかは、その行為によるのではなく偏に受け取る側の心境で決定されるものなのだ。
キスをして怒る女性もいれば、
キスをしないからと言って怒る女性もいる。
困ったもんだ。
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井の底、谷底・・・
深いものはとかく暗い。
明るいものはとかくフラットだ。
明るいものに厚みを見出す作業を怠らず、
谷底から天にまで至る空間を捉ええたい。
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農民をうたう詩人より、農民自身に輝きを見る。
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「自由」は、己の手で己を輝かせるための「フリースペース」。
「自由」の束縛とはこの「フリースペース」の侵略。
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人間には正しい貧しさが必要だ。
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祈るとは、手を合わせ背を丸めることではない。一念念じれば行動へと発展もするはずのものである。その全体を「祈る」という。
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「死」……大地より生まれ出て大地にもどる。悲しむことはない。「成就」をこそ喜ぼう。
この場合、大切なことは「成就」と言うにふさわしい死に方をすることだ。
人は永遠の一瞬を流れる流れ星。せいぜい美しく流れようか。
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芸術家はとかく傲慢である。傲慢が秀でた内容を伴っていればきわだった異才を発揮するし、誤っていると陳腐で無駄、又は狂気ともなる。しかし、芸術家といえどいずれ不完全な人間である限り、この両面を常に内包しているわけだ。いずれ100%ということはあり得ない。あとは「正気」と「狂気」のパーセンテージの問題だ。ファンを<死>又は<破滅>へと導く芸術家がいくばくかの「正気」を含んでいるとしても、それはやはり「狂気」に属するのだと断ぜざるを得ない。
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自然のことを忘れないでいよう。
基本的に、動物及び植物は直接大自然の言葉によって生きている。
人間は直接・間接に大自然の言葉によって生きている。
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「食欲」等に比べて「性欲」がなぜ陰湿な扱いを受け、とかく蔑視されるのか私はよく解らない。いずれも人類が継続されていくための不可欠な欲望である。「性欲」は「食欲」と肩を並べて、明るく健康的に光の中に運び出されなければならない。
今日、彼女はデートに初めて“勝負パンツ”を穿いたのだ。彼には内緒だったのだが、生涯で初めて伏し目がちになり、言葉少なくなった。蝶がヒラヒラと舞うように笑顔で男の側に駆け寄って、呼吸をはずませることだって出来た。我を離れて「はい」と素直に答えることも容易に出来たのだ。そして男の言葉一つ一つが耳に焼き付き、世界がキラキラと輝くものであることも知った。それはいま女が女であれる人生の中の輝く一日。自然が命じるままに、女が女を咲かせることができた女性記念日だ。男達よ、記念日の女性が愛おしいではないか、健気(けなげ)ではないか。この貴重な日のことを、猥雑な社会に在って、女も男も一編の純粋な詩として胸の中に残したいものだ。
“勝負パンツ”を、汚れた物と見るのは間違いだ。
出来るならこの日の一部始終を、男達は心の手帳に書き留めるもいい。“「性」は可愛く、やさしく、美しいものだった”と・・・。さあ、人類の明日へ明るくスキップしようか。
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女性は気づいていないかも知れないが、男たちは女性を観るときとりあえずは自分の恋人候補として見るのだ。そして瞬時に己の諸条件と突き合わせつつ連続する落胆を伴いながら切り捨てていくわけである。それを毎日街角で、職場で、駅のホームで繰り返している。
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大勢の理解者なんて望まないよ。二人共鳴してくれればそれでいいだろう。
たった二人だなんて思わないことだ。その二人が次の二人へとつながってくれれば、2の累乗で伝播されていくわけだ。決して匙を投げたり絶望的になったりしないし、沈黙と妥協を交わすつもりもない。
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宝石は、きっと自らが宝石だということを知らない。少し煌めくものがあれば「すごい!」などと感心し、己を駄石だと信じ込んでいる。
私の知るその女性も、若くて美人だし、礼に厚く深い詩も書いて聡明だ。しかし、自らを駄石だと信じ込んでいてとかく内に閉じこもって遠慮がちだ。もったいない限りではある。こんな女性にこそ社会を闊歩してほしいと願うのだが、秘められているからこそ美しいのかも知れない。
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私をも含めて、とかく考える癖(たち)の人間は考えることで命を武装しようとする。しかし、あまり思考しない人は命を投げ出したまま生きているのだ。
あのあどけない動物たちを見ればいい。なんという澄んだ瞳で神を見ているのだろう! ぼくたち考える人間は、完全に負けそうじゃないか。
もし君がもう考え始めてしまったのなら、いま過去の中途半端な考えをいさぎよく捨て去るか、それが出来ないのなら、汗を拭き拭きひとり思考の櫓を漕ぎ続けて、360度、思考の池を一回転してくるより他ないね。そうして後、ようやく動物たちの横に並んで神、仏を感じることになるのだろう。
<座禅>はね、前後左右一切の想念を断ち切り、今の一呼吸とのみ対座することなんだって。それこそが命を生きるということなのかも知れない。
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わが家で飼っているウサギさんは、どうも赤く大きな目で黙って神を見て座っているようだ。その白く長い耳で神の言葉を漏らさず聴いて生きているらしい。それは何もウサギさんに限ったことではなく、すべての動植物がそうなのだろう。私はウサギさんよりちょっぴり余分に神から<知恵>とやらを授かっているので、だからちょっぴり<知恵>とやらを持つ姿勢でウサギさんの隣りに並んで座り続け、同じ目線で生きたいと思っている。
単純だが、それが目下の私の人生観の結論である。
でも、ウサギさんにはきっと勝てない。
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いつの世も「愛こそ、ステキ!」
「自然こそ、ステキ!」
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私の子は人の子。
イラク国民も人の子。
アメリカ兵も人の子。
自衛隊の若者も人の子。
みんな輝かなければならないということ。
殺されてはならないということ。
殺してはならないということ。
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愛されているということの一つは、必要とされているということ。まだ存在しつづけなければならないということ。
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宝石は人が誉めても誉めなくても宝石。君の命、ぼくの命、誰にも告げず磨いて輝く宝石になれたらうれしいね。
♪あした宝石にな〜れ♪
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【完了 または 成就】
生まれ出るはめでたく、
生きて在るもめでたく、
老いて力衰えるもめでたく、
死ぬもまためでたい。
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この人生は「学校」。
わが子は「希望」。孫は「希望の拡がり」。
やがてこの「人生学校」卒業の日が来ても笑顔で卒業していけそうです。
孫たちはみんなやさしいし真面目だから……
=全141編=
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