◆「こころの時代」シリーズ21◆
【小説 やさしい屋根の下付近で】


2000年4月1日から 人目のお客様です






 恵子はいつものようにパジャマ姿のまま形通り夫を送り出した。リビングにもどって、ひとりレモン・ティーをすすりながら思った。
 「わたしは間違っていた」と。
 本棚に全集本を並べるより、感動をもって一冊の本を繰り返して読む人生を選ぶべきだった。豪華なコンポを飾るよりCDの一曲に涙したりもする日々を選ぶべきだった。夫の親の援助を受けて家を買うより、借家住まいでもいい、子どもを二人三人、場合によっては五人も育てる人生を選ぶべきだったのだのだ。それが、“生きる”ということ・・・・・
 夫に仕える人生、繋がれて帰りをひたすら待つ、まるで留守番犬にも似た人生ではなく、夫と共に闘い、笑い、転んで傷つき、また立ち上がる人生を選ぶべきだった。周囲から、よくできた娘・嫁と誉められなくてもいい、信じたひとへの愛を一筋に貫く人生を歩むべきだったのだ。
 恵子は立ち上がって、古くなって欠けた紅茶茶碗をゴミ袋に捨てた。結婚祝いに友人からもらったものだ。それ以来ずっと使い続けた薔薇の絵模様のフランス製で、毎朝夫とペアで使っていた。茶碗をゴミ袋に捨てて恵子は「明日からは夫とペアで紅茶をすすることはできない」ことを思った。
 しかし「もういいわ」とつぶやいたのだ。明るい窓の外を見た。恵子は明日28歳になる。

 K女子短期大学に通うころ、恵子には恋人とよぶべきひとがいた。O音楽大学に通う作曲家志望の青年で山中唯生、タアちゃんと呼んでいた。シューベルト、シューマン、ことに苦悩の音楽家シューマンの妻クララ・シューマンについて語るとき彼の目は異様に輝き、確かに彼女の心をうながし引きずるに充分であった。いまもって彼について夫は全く知らないのだが、登山小屋でただ一度体を交えたことがある。ただ一度だ。体が火傷を負ったようにヒリヒリ痛み、四肢がガクガクと震えた。
 彼との結婚を母に泣いて反対され、「叔父さんに意見してもらう」と言われたとき、彼女は彼と別れる決心をした。もっとも彼女自身、彼の将来の不確かさが怖かったことも事実だが………
 短期大学を卒業して間もなく、「四年制大学は出ているし、公務員だから将来は保証されている。性格は羊のように温厚だし」と、叔母が半強制的に押しつけてくれたいまの夫と結ばれたのだ。
 あの日のタアちゃんはいま、どこでどうしているのだろう? 作曲家になったかしら? なれそうかしら? 夢を抱き続けているのだろうか? それから、共に闘ってくれる、やさしく聡明なクララを見つけたかしら? もう私のことは忘れ去ったのだろうか?

 ふた月ばかりまえになる。恵子はTデパートの前で、学生時代同級だったモト子に出会った。
 モト子はK銀行の支店長の娘で、こまやかな心づかいと持ち前の愛くるしい顔立ちでクラスの人気を恵子と二分していた。いや、正直、彼女に勝っていたに違いない、と恵子は内心思っている。大学在学中、家族に反対されたあげく、同齢の中村という男性と駆け落ちした。モト子の家にクルマを売った男だ。
 クラスメートたちもモト子の行動には冷淡だったと思う。彼女は世間知らずのお嬢さんだ。バカなことをしたものだ……というのが大方の見方であった。「それでいいじゃない」という者もいた。
 その後モト子の消息は耳にしないまま、七年が過ぎた。そうして七年ぶりに、恵子はばったりモト子に会ったのだ。
 二人は近くの喫茶店に座った。
 恵子の会ったモト子は、とにかく見るからにはつらつとして闊達であった。意外といえば意外であった。
 喫茶店に腰を下ろした恵子には、内心モト子のみじめな人生の泣きごとを聞いてやろうという期待があった。一段の高所から、彼女の人生のもろもろをもっともらしく批判し、忠告もしてやる快いひとときを予感していたのだ。
 しかしモト子がなんの屈託もなく、快活にしゃべり続けた彼女の七年間の消息は次のようであった。
 結婚してまもなく、夫はクルマの販売をやめ、耕運機の販売を自らが始めた。店舗もなく、あり金をはたいて電話一本を引き、とにかく二人して、田舎道を歩きに歩いたという。それが徒労に終わった日が幾日あったろう。夜、アパートの薄明かりの下で、二人して疲れて泣いた。
 「足が棒になるって表現があるでしょ。ほんとに足は棒になるものなんだって、初めて知った」とモト子は笑った。「わたしはどこかおつとめに出ようかって言ったんだけど、主人が『おれは苦労をかけるおまえをこの目に焼きつけておきたいんだ。その方が愛情が深く固まっていく。別々に苦労をしたって理屈は同じだが、感情は違う。それが人間だ。必ずうまくいく。しばらく辛抱してついて来てほしい』て言うものだから、わたしは彼を信じた」と言う。
 販路を開くにはアフターサービスが肝心と、モト子も耕運機の修理を一通り覚えたという。そういえば、コーヒーカップの辺をなでるモト子の指が、以前より幾分節くれ立っていると恵子は思った。と同時に、飲み終えたコップの辺をなでるその小さなしぐさの中に、恵子は七年前のモト子を思い出した。それが学生時代からの、女性らしいはにかみを含んだモト子の癖なのであった。いまもまた、まったく同じなのである。モト子はまだ少女を失っていない、恵子はそう思った。
 激しく波立ち渦巻く社会を前に男のように立ち上がり、己を貫きながらなお彼女は女性を失ってはいないのであった。もし自分が男であったとしたら、やはりモト子のような女性に惚れ込みはしなかったろうか……彼女はモト子の顔をしげしげと見つめながら、そう思った。
 こうして三年、モト子はお百姓たちから“機械上手の娘さん”という珍名をもらい、耕運機の売り上げは順調に伸びていった。
 「大勢のお百姓さんの知り合いができちゃったの。みんなこころやさしい人ばかりよ。『大根持って帰んな』『キュウリ持って帰んなよ』って。息子のお嫁さんにほしい、なんなら家は新築するから、なんていう人があって、『ちょっと待ってください』てあわてたりして」と、モト子は笑う。
 その後まもなく長女が生まれ、夫が“愛”がいいというので“愛”と名付けました、という。
 そうして、昨年四月、小さな店舗を買った。「借金のカタマリなの」と言って、
 「あ、愛を迎えにいってやらなきゃならない時間だわ。保育所に預けてるのよ」
 モト子は言って立ち上がり、「じゃ、お元気でね」と自分の勘定だけは支払って、所在も告げず、名刺の一枚も置かず、さっさと人混みに消えてしまったのである。
 モト子は明るく語った。しかし、あの駆け落ちた日、彼女は周囲から見捨てられ、身をやつし、身を隠した自分がみじめであったに違いない。夫との愛情は愛情としても、彼女のプライドはおそらく孤独にふるえたに違いないと、恵子は思った。彼女を孤独にうちやった周囲……その一角は間違いなく自分でもあったのだ、と彼女は気づいた。所在も告げず、再会も約さず去った彼女……彼女にとって、ことに彼女のプライドにとって、自分は再びその友とはなり得ない、彼女の側でも見捨てた、どうという存在でもないことに、モト子と別れてのち恵子はおぼろ気がついたのである。
 それに……そうだ。
 モト子には旧交を振り返ることより、いま刻々と燃えている新たな日々があるのだ。
 手を携えて、共に開く扉。扉の向こうが、修羅場であろうと、信じて共に扉を押し開く愛。そうして、地獄に堕ちるまいと、共に闘い這い上がる汗……そんなモト子のめくるめく世界は、自分になど立ち入ることも許されない燃える世界に思えて、恵子はつくづくと自分がみじめに思えた。

 いま、夫を送り出したあと、恵子は立ちつくしてしまった。もう動けない。凪ゆえに座礁した難破船だ。
 ここ半年ばかり、胸の中に原因不明の煙霧が増すばかりであった。それは恵子自身の追究の前にしだいに正体を現し、様々の意味での自己欺瞞の霧であるらしかった。
 このままの生活を続ける限り、霧はますます深まっていくばかりではないかと、恵子は考えた。
 「私がここにいる限り、周囲は周囲の生き方の一部に私をはめ込み続けるのだ」
 恵子は、夫と自分と周囲に戦いを挑もうかと前髪を掻き上げた。が、
 「しかし、もう遅すぎる……遅すぎる……七年の歳月が流れて、私はもう28歳なのだ」
 恵子はつぶやいて、リビングのじゅうたんの上にへなへなと座り込んだ。
 「遅すぎる……しかし、こうした曖昧な理由による妥協の積み重なりが、いつの間にか私の人生を根こそぎ盗んで行ってしまうのだ。残るのは、私自身の人生を持たない、私の形骸……いま立ち上がるのでなければ、ますます遅れるばかりなのだ」
 恵子はこのありふれた、やさしい屋根の下を出て行く決心をし、立ち上がった。この朝こそが、新しい人生の出で立ちの朝となる。
 タンスの引き出しから下着類を取り出し、次々とスーツケースに詰めていく。飼い猫のミューが喉を鳴らせて足元にまつわりついてくるのを、けがらわしいもののように押しはらい、恵子は身支度を整えていった。
 胸の底から得体の知れない涙がこみ上げて、
 「負けてはならない! 負けてはならない!」

 スーツケースを提げいま鍵を掛けた玄関先をただ一度振り返り、恵子は去年の暮れ新築したばかりの家を離れた。座礁の岸辺を離れる難破船だ。いや、もう難破船ではない。新造船なのだ。
 『財布には現金が九万八千円と少し』それからS銀行に預金が少し。…『蒸発』という言葉を恵子は思った。それは、自分とは無縁の世界の無縁の人達の行為のように考えていたのだが、結果として、いま自分が現実にその道を歩み始めているのだ。夢を見ているように思えた。しかし、夢ではない。夢の世界のものと思っているものも、実は、息を殺してすぐ隣りにひそんでいたのだ。現代、全てがそうなのかもしれない。東京と大阪、成田とロスアンジェルス、月と地球、それらの時間的距離が近づいたのと同様、他の様々も近づいたのだ。もはや私たちにとって無縁というものはなくなったのではないか……恵子はそう思った。
 駅でとりあえず都心までの切符を買い、電車に揺られた。
 「こんなに恵まれていながらあいつは何が不満で……」と、夫を始め周囲は声を揃えるに違いない。一見なんの心配事もなく見える乗客たちの顔を見やりながら、彼女は激しい孤独を感じ始めていた。
 『孤独とはこんなに厳しいものなのか!』 七年ぶりに『タアちゃん……』と小声でつぶやいてしまった。その声は走る電車の騒音にかき消されて乗客に聞かれることはなかったが、彼女は言葉のあとにもう一言付け加えたかったのだ。『たすけて……』
 孤独とはひとり居のことではない。ひとり居ならよくあることだ。そして、ひとりが快適なことだってある。孤独とは、木枯らしの中にひとり立つことなのだ。そこには常に吹きつける冷たく厳しい風がある。孤独とは近隣が、人々が、風に変わってしまうことなのだ。
 化粧に長く時間をとったせいか、都心に出てまもなく昼時になってしまった。
 レストランでランチをとって食べながら、
 『夫はいま何も知らず、やはりいつもどおりに役所の食堂で昼食を食べているのだろう』
 食事がすんで、さて、どこへ行く当てもなし、ウインドウを覗いて通りを往復した。バッグは重いし、疲れた彼女は映画館に入る。一度夫に連れられて、『タイアン』とかいう映画を観た館だ。“勇壮無比”というキャッチフレーズのついた西部劇だった。夫は西部劇が好きなのである。夕食後とかくその手のテレビ番組にチャンネルは合わされる。
 「西部劇がお好きなのね」と言うと、
 「ドラマチックだからね」と答えた。その言葉を聞いたとき、心の中を寒々とした風がとおり過ぎるのを恵子は感じたのだ。
   鉄砲片手に馬に乗り勇壮な姿で駆け回り、丸腰の先住民たちを追い払い時には殺傷し、己の領土を広げていく姿をドラマチックと思えるのか? 私は、違う。
 とにかくここで、ゆっくりと今後の対策を練ろう。映画館に入って恵子はそう考えた。上映されているのは喜劇映画らしく、しばしば観客の笑声がどっと館内に響いた。
 きのうまでの彼女なら、観客と一緒になって笑えたに違いない。観客は誰もが素直に、気楽に笑えているのだ。笑いには、その前提に生活の安心感と多くを忘却した心が必要だ。きょうの彼女には笑うことができなかった。彼女は観客の笑声を耳にするたびに、震え上がるような孤立を感じないではいられなかった。
 めざめて、人が真実を選ぶと、とかく孤立がついてまわる。それに耐えうる者だけが人生に真実を宿しつづけることができる。
 映画は一巡したようである。
 恵子は暗闇の中で、スクリーンに反射した光に照らして腕時計を覗く。
 ・・・5時33分
『もし帰るなら今がぎりぎりの時間だ』と恵子は思った。『今なら一切をそっと元へもどせるのだ。夫に知られないですむ。・・・なあに、帰るものか! しかし、今夜、夫はどうするだろう。7時20分、いつものとおり帰宅するだろう。ところが家にはまったく灯りがついていない。チャイムを押しても応答なしだ。合い鍵で家に入り、灯りをつけ、「恵子!」と2度、3度呼んでみる。私はいない。スーツを着替えてテレビのスイッチを入れ、テーブルの前に座り、ニガ虫かみつぶした顔つきで夕刊に目をとおす。1時間が過ぎる。食事はどうするだろう? お茶は自分で入れるだろうか? きっと入れない。食事もとらないだろう。腹立ちがしだいに心配に変わってくる』
 『事故にでも遭ったか・・・それとも家出したのではあるまいか? そんなはずはない。不足はないはずだ。夫は理由を胸にさぐってみる。あれこれ思い浮かべても、一度も妻に手をかけたことはなし、カケ事、浮気……家出の原因となるものは思い浮かばない。生活費だって毎月きちっと口座に振り込まれている。
 何か手がかりになるものはないか……あちこち探し、やがて、スーツケースが2個なくなっていることに気づくだろう。
 「とにかく実家へ電話を入れてみよう」
 夫はポケットから携帯電話を取り出すが、
 「いや、もしなんでもなければ、要らぬ恥をさらすだけだ。よそう、もうしばらく……」
 けっきょくすべては、明朝まで待ってから、ということにして夫は床に就く。しかし、妻は一晩帰っては来ない。
『翌朝、夫は実家へ、姉の嫁ぎ先へ、それに友人の千津子さん、純子さんにも問い合わせるかもしれない。場合によっては警察へ保護願いも……5日経ち、7日経ち、10日が過ぎる。私の噂は知人たちにくまなく広がり、「心配だ!」と、結構楽しい暇つぶしの会話のタネにされ、いつの間にか、私には外に男がいたらしいというありもしない話がまことしやかに語り継がれ、定着していくのかもしれない。やがて浮気女という烙印を押され、この烙印は生涯消し去ることはできないのではないか。それでも母だけは烙印を押し切れず、ただおろおろと周囲に詫びたりしながら、「ともかく恵子、帰って来て!」』
 それからだ、この広い都会の海の中で、私の取りつくよすががどこにあるのだろうか? それを見出し、私のものに成し遂げられるかしら? いま私を守ってくれるもの、共に歩んでくれる人は、この海の中には誰一人いないのだ。歳ももう簡単に恋愛できる歳ではないし……
 もう10分、もう10分このシートに座っていれば、自動的にそれらの状況はお前のものとなるべく、やって来るのだ。今ならまだ帰れる。逃れられる。凪の港へ! 夫に気取られることなく、一切をそっと元へ戻せるのだ!
 とにかく駅へ向かって歩いていよう、と恵子はシートを立った。『戻るのをよそうと思えば途中いつだって止せるんだもの。ま、決定は先へのばそう。よく考えてからだ』
 恵子は駅で切符を買い、下り電車に乗る。安堵が半分、彼女の胸に戻って来た。それはなんという安らかさ、やさしさだろう。彼女は再び心につぶやいた。
 『戻るのをよそうと思えばいまからだって止せるんだもの。決定は先へのばそう』

 けっきょく恵子は家に帰り着いて、スーツケースの中のものを取り急ぎタンスの中にしまい込み、エプロンを着け、トントンとまな板に包丁の音を響かせたりしてあり合わせの食材で夕飯の支度に取りかかった。
 7時20分、夫は「ただいま」と言っていつも通りに帰ってきた。
 「お帰りなさい」と恵子はごく自然に迎えた。
 夫はテレビのスイッチを入れ、それからあとは殆ど沈黙だ。今夜に限ったことではない。夫の口が重たいせいもあるが、話題が見つからないのである。それでも家を新築するまでは共通の話題があった。しかし家が建ってしまうと、話題も終了してしまったのだ。ときどき、あまりに長い沈黙が、黒い恐怖の形で夫との間に割り込んでくるのを恵子は感じることがある。すると恵子はそれを追い払おうと、取り急ぎ話題を胸にさぐるのだが、「きょうのお仕事はいかがてしたか?」とか、「お向かいの子どもさんが側溝にはまりましてね」とかなんともしらじらしいセリフしか浮かばないことが多い。「仕事がどうだって、どういうことだ?」と、夫から逆に問い返されるとしどろもどろになって、「いいえ、取り立てて別に、どうという」などと、ますます白けた気色になってしまうのだ。
 恵子には、真実話したいことがある。山ほどある。その一つを持ち出しただけでも家庭争議が勃発することは目に見えていて、しかも一つ持ち出せば、一見個々ばらばらに見えるそれらは実はすべて連続した山脈状になっているようで、けっきょく山脈全体をふちまけねばならない大作業になりそうだ。そんな業は日々の現況、空気からあまりに遠くかけ離れ、途方もなく、試みてもただ贅沢または狂気と解され、今さら結実することも期待できず、それならと、恵子は毎夜死んだ口、死んだ言葉で夫に対することになるのだ。
 やはり、今夜も沈黙が続いた。ただ今夜は夫に後ろめたい気持ちがして、恵子はせいいっぱい夫に奉仕したい気持ちだった。短いスカートで夫ににじり寄り、その胸に頬をすりつけて甘えてみた。
 夕刊を読んでいた夫は、『いつもと様子が違う』とは感じたが、悪くもないのでそれまでだった。

 『ノラは強かった。……それから私は6千円ばかり無駄遣いをしてしまった。6千円くらいなら夫に気づかれないでやりくりしてしまえる』 夫の胸にしなだれたまま、恵子は考えていた。『モト子は実際にあんな苦しみを乗り越えたのかしら? モト子は恋人と、その愛と一緒だったから乗り越えられたんだわ。彼女だってきょうの私みたいにひとりだったら、できなかったはずだ、絶対に! だれがひとりであの苦しみを乗り越えることができるものですか!』
 夫が頭の後ろで話しかけているのに恵子は気づいて、ハッとした。
 「え? なんです?」
 「チャンネルを変えてくれて言ってるんだ」
 なんだ、そんなことか……
 「6チャンネルだ。9時から『西部渓谷を馬で行く』というのがある」

 「ノラは強かったわ、タアちゃん………………」
 その夜、恵子は寝言で声に出してつぶやいてしまった。彼女の足に足をからませた夫は、3分ほどまえに眠りに入っていたので、恵子は夫に寝言を聞かれなくてすんだ。セーフだ。
 彼女もそんな寝言を吐いたとは知る由もなかったので、言葉は夜の闇の中に永久に葬り去られたのである。






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