
愛ねえさんはデパートにつとめています。
おかあさんは3年まえに、ガンでなくなりました。たくさんのチューブにつながれて、病院の白いベッドで眠るおかあさんの姿をミサはおぼえています。
「おかあさん…」と、よびかけても返事はありませんでした。そのままおかあさんは、ミサのそばからいなくなってしまいました。いつまでもいつまでも、なみだがあふれて、のどがしゃくりつづけました。
おかあさんがなくなって、おとうさんの夕食のときの楽しいお酒の量がだんだんふえて、こわいお酒にかわりました。酔っぱらっては、大声でどなりました。何をさけんでいるのかよくわかりません。ただ、なにかをうったえているようでした。足にクサリがからんで動けなくなったときの飼い犬ラッキーのさけび声ににていました。
2番目の幸子ねえさんは外出がふえて、ある夜おとうさんと大ゲンカになりました。
「夜おそくまでどこをうろついているんだ!」と、おとうさんがさけびました。
「わたしのことは、ほっておいてよ! あんたにそんなえらそうな口をきく資格があるの! 毎日毎日お酒ばっかり飲んで!」幸子ねえさんがやり返しました。幸子ねえさんは、おとうさんのことを「あんた」といいました。
「とうさんはなあ……とうさんはなあ……」
おとうさんはあわてたようすでさけびました。しかし、そのあとの言葉がつづきません。おとうさんがはじめて娘に暴力をふるいました。家庭のなかのたいせつなものが、こわれてしまったしゅんかんでした。おとうさんの目になみだが浮かんでいました。幸子ねえさんはそのまま家に帰りません。それからもおとうさんのお酒の量はますますふえて、やがて、おとうさんも家に帰らなくなりました。
いま、ミサと長女の愛ねえさんはおばさんの家に身を寄せています。部屋代が助かるからです。こうしておねえさんは少ない給料で自分じしんとミサを養っているのでした。なぜなら、そうするよりほかなかったからです。
おばさんの家からおねえさんのつとめるデパートまでは、遠くありません。歩いて10分くらいです。ミサは学校から帰ると、よくデパートの5階にゆきます。そこの紳士服売場でおねえさんははたらいています。大勢の同じ青い制服の若いおねえさんたちがいます。しかし、ミサはすぐに愛ねえさんを見つけることができます。色が白くて、スタイルがよくて、いつもニコニコ笑っているのがおねえさんですから………
「おねえちゃん、また来たあ!」とミサは笑っていいます。
「きょうは忙しいからお帰りなさい」 おねえさんが、こうこたえるときもあります。
そんなときには、すなおに「わかった」といって、ひとりちかくの公園で遊んでから家にかえります。
しかし、たいていは「木下さん、ちょっとお願いしますね」とか「原田さん、すみませんがお願いします」とかいって、ミサを8階の大食堂に連れていってくれます。
食堂の前は大勢の人で、その向こうのケースの中にごちそうがチラチラ見えます。このごちそうは作りもので食べられませんが、なんとまあじょうずに作ってあるのでしょう。甘いにおいがあたり一面にたちこめています。
ミサはこのにおいが大好きでした。このにおいにつつまれていると、かなしいことはみんなきえてしまって、心の中がパッとしあわせになるのでした。おいしいおやつとやさしい愛ねえさんのミルクのようなにおいです。
「なににする?」とおねえさんは小さな小銭入れを手にたずねます。
「うーん、えっとー」
「ホットケーキでいい?」
「うん、ホットケーキがいい」といって、おねえさんのひざにしがみつき「エヘヘヘ」とへんな笑い方をします。うれしさとはずかしさとが心の中でまざり合って、こそばい気持ちがするからです。
《ホットケーキ》 400円
と印刷されている食券をミサに渡すと、愛ねえさんは「気をつけて帰るのよ」といって階段をおりてゆきます。
「うん、分かった」
ミサはあいた席をさがしてひとり腰をかけ、
「ホットケーキひとつね」と、ウェイトレスのおねえさんに注文します。
そんなある夜、いつものように仕事から帰ってきたおねえさんをミサはじっと見つめていました。こうして、一日ぶんの愛ねえさんを取りもどすのです。心のなかに、おねえさんのやさしさをいっぱいためておくのです。
髪にウエーブがかかったおねえさんの白い顔は、いつか本屋さんで見たマリアさまの顔に似ているようでした。
「愛ねえちゃん、大すき……」 ミサはこころの中でつぶやいていました。
おねえさんはいつものように足をたたみの上にのばしてトントンたたいていましたが、やがてミサにいいました。
「こんど仙台のお店が閉店することになったの。それでおねえさん、2週間ばかりお手伝いにゆかなければならないのよ」
「じゃ、おねえちゃん、2週間も仙台へ行って帰ってこないの?」ミサはおどろいてたずねました。
「そうよ」とおねえさんは答えます。
2週間! 14も寝て起きてしなければおねえさんにあえないなんて! おはなしもできないなんて! こう思うとミサは急にかなしくなって「イヤだ! イヤだ!」と泣きました。
愛ねえさんの帰ってこないおばさんの家! おねえさんのいない紳士服売場、ああ、そんなものは考えることもできません。
泣きながらミサはいいました。
「ミサもいっしょにいく、連れてって!」
「バカなことをいうんじゃありません!」 おねえさんはきびしくいいました。
「イヤだ、連れてってちょうだい!」
「泣きやみなさい!」 おねえさんがさけびました。
こんなにきびしいおねえさんを、ミサははじめて見ました。
「泣きやみなさい! たったそれくらいのことで泣いていいのだったら、世の中のひとだれだって泣きます。お向かいのヨッチャンだってミッチャンだって、おとなりのテッチャンだってサトルくんだって、みんな泣きます。がまんしなければならないのよ、がまんしなければ!」
ミサはおどろいて、おねえさんの顔をのぞきこみました。おねえさんはミサの顔も見ないで、てんじょうからぶらさがった蛍光灯をまぶしそうに見つめていました。いつもはやさしくほほえんでいるおねえさんの白い口もとが、一の字にかたくむすばれ、目にはうっすらとなみだが浮かんでいました。おねえさんは上を向いて、なみだが落ちるのを、ふせいでいるように見えました。それから、おねえさんの口もとがかすかに動いて、ふるえるように動いて、こんなつぶやきがもれたのです。
「おねえさんだって……」
ミサはハッとしました。そうだ、おねえちゃんも苦しんでるんだ。だまって悲しいんだ。そう思いました。わたしだけが泣いちゃいけないのだ! 急いでスカートのすそでなみだをぬぐって、それから、そうです、それからミサはもう泣きませんでした。
木下さんと原田さんが、プラットホームに愛ねえさんを見送りにきています。こわい顔をした男のひともきています。おねえさんの白い顔が、列車の窓に見えます。
「10番線青森行、特急津軽、発車いたします。お見送りのかたは黄色い線までおさがりください」 なれた、感情のないアナウンスの声がホームに流れます。発車のベルがなりました。
けれど、ミサは泣きませんでした。ホームの固い鉄の柱をしっかりとにぎりしめて、だまって立っていました。
“ピーッ!”つかれたように、わかれる人のかなしみをうったえるように警笛が夜空に流れて、しずかに列車が動きはじめます。愛ねえさんの白い顔が、木下さんと原田さんとこわい顔の男のひとにほほえみかけています。やはりおねえさんはいつものとおり、春の菜の花のようにほほえんでいます。あの夜、蛍光灯をみつめながらつぶやいたあのおねえさんの顔はそこにはありません。
あの夜のおねえさんは、ゆめ、まぼろしだったのでしょうか?
それともいまが、ゆめ、まぼろしなのでしょうか?
わかりません。
それともう一つ、ミサがまったくわかっていないことがありました。
それは、こわい顔の男のひととおねえさんの心の距離のことでした。
ほほえんでいる愛ねえさんの顔がグングン遠ざかってゆきます。
『さようならおねえちゃん、14の昼と夜のあいだ!』
ミサの目のふちがパッと熱くなりました。それでもミサは泣きませんでした。
「わたし、泣かないよ! わたし、泣いてなんかいないよ! おねえちゃんもがまんしてるってこと、わたしわかったんだもの!」 ミサはつきあげてくる泣き声をグッとのみこみました。
やがて、列車の赤いテールランプが夜のヤミのなかに見えなくなります。
木下さんと原田さんとこわい顔の男のひとが、わらいながら話しています。
ミサは、ひとりぼっちです。ゲンコをかたくにぎりしめて、出口への階段をかけおりてゆきました。
にぎやかな駅前を、ひとりおばさんの家に帰るミサの耳に愛ねえさんの声がくっきりとよみがえってきました。
「それくらいのことで泣いていいのだったら、世の中のひとだれだって泣きます。ヨッチャンだって、ミッチャンだって、テッチャンだって、サトルくんだって!……そして、おねえさんだって!」
ミサはひとり、大勢のおとなのひとたちにまじって夜の都会の横断歩道をわたってゆきます。交差点の正面の信号灯の〈青〉がミサの目にまぶしく、まぶしくかがやいて見えました。
「ミサちゃんの黄色いクツ、かわいいね」と、黄の信号がいいました。
「うん、ミサちゃんの赤いクツヒモもかわいいね」と、赤の信号がいいました。
「でも、ぼくたちしばらく消えていようね。青信号にまかせておこう」 黄と赤のランプがいいました。
〈青〉の信号だけがミサのゆく手に光っている駅前通りでした。
「なに? 青だけが光っていたって? そんなことってあるはずないよ」とあなたはいいますか?
いいえ、そんなことってあるのです。あるのですよ…………
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