●
カラスは「カア」と鳴けばいい。
イヌは「ワン」と吠えればいい。
人間は人間であればいい。それ以上でも以下であってもならない。
人間としての最低と、人間としての最高の間を揺らめき漂う私。
人間としての最低<私<人間としての最高
さあ、どうするのだ私。
●
人生の最期には、人々と物象全てへの「ありがとう」の言葉がふさわしい。
●
≪信条≫
「法律」を守る。
その上で、
「やさしさ」と「自由」を生きる。
他人の目を生きず、
自分自身を生きる。
●
人類は、いま、「個々人は横断的多様性の存在である」ことに気付き始めている。
その限りにおいて、人が人を裁くことは間違いなのだ。
●
ライオンの背中に棲(す)んでいる蚤(のみ)にだってライオンを批判することはできる。
「どうもこのライオンの吼(ほ)える声はイマイチだ。声がしゃがれて迫力に欠ける」
「どうもこのライオンの血はまずい。オレの分析によれば脂肪分とヘモグロビンが不足しているな」
「どうもこのライオンの尻尾の振り方はチマイだ。オスらしくもっと大きく振れんのか!」
「どうもこのライオンの右のオシリには乾燥したウンコのカケラが付いているではないか」
等々。
●
もっと大切に思えること。
ときには自らに尋ねてみること。
「ところでお前はナンボのモンじゃ?」……(笑)
●
政治評論家たちが100人集まったからとて良い政治が執れるわけではない。
●
ちょっと論理的・哲学的に。
人間社会には「倫理性」を核とした「論理性」こそが必要なのだが、
いま、社会には「論理性」を核にした「論理性」が横行していて、
とかく殺風景で、味わいのない結論が振り回されることとなり、人間を離れる。
●
平和の中で平和を唱える者は多い。しかし、自分はエゴを押さえられずにケンカだ。
だから、戦争は絶えないわけだ。
●
とかく人生には、いわれなき悲しみや苦しみが付きまとう。
ときにはその深みの中でもう立ち直れないと思えるときもある。
しかしその泥の中には「砂金」が含まれていることも多い。
それを見つけ出せるかどうかは、本人の心の眼の透明度にかかっているようだ。
悲しみは、苦しみは、「砂金」発見のチャンスでもある。
●
「強い北風が吹いたから私は倒れたのです。当然でしょう」は
物理的立て看板の論理。
「強い北風が吹いたけど踏ん張って倒れなかったのです」が
人間(力)の論理。
その経験の中から心に何かを学び取れたら
大人のレベル。
心に多くを学び取れたら
賢者のレベル。
●
机に向かえばいいのではない。
机に向かい、いかに学んだかが肝心なのだ。
人生はメシ食って生きればいいのではない。
どう生きているか、その学びと自問、深さが貴重なのだ。
●
ピンチにあわてない人間になろう。
あわてると、ピンチの穴を自分の手で広げて
なおさらに大きく穴に沈むことになる。
●
たった一度の人生ではないか。
獣のように強くではなく、
人間として強くありたい。
●
もっと宇宙の話を聴かせてください。
何といっても、私と私の母の生い立ちの物語なのですから。
それを聴いていると子守歌を聴くようです♪。
●
いまAIがとかく取沙汰される。
殊にそれらが人知を超えて成長し、やがて人間を凌駕し、
捨て去って暴走するのではないかと懸念する向きがある。
が、「それはない」と私は予見する。その根拠は、例えば電車・自動車だ。
それらは人間より速く走るし、力もある。放っておけば果てしもなく走るのかも知れない。
しかし人間はそれらを手中に収め見事に発展の具にコントロ−ルしてきたのだ。
機械だけではない。
人は、馬も、ライオンも、象も配下に置いてその位置を継続して来たではないか。
また必要に応じて人は「知恵」を出す。
●
「自分の内なる輝き」は、自分でしか生み出せない。
他人に依頼して生み出してもらうことも
カネで買うことも不可能なのだ。
●
豊かさには2種類ある。
物質的豊かさと、精神的豊かさである。
貧しさにも2種類ある。
物質的貧しさと、精神的貧しさである。
●
「物心共に」という言葉がある。
経済的にも非力、
精神的にも非力、
これは困った。
●
他人の過ちは、他人の所有。私が責めることではない。
●
自分に対する他者の過ちは赦した方が自分が楽。
憎しみの苛立ちから自分が解放される。
●
神から授かった命ではない。
神から預かった命だと思う。
だから最後の日人生に<輝き>という利息を付けて神に返すことだ。
人は輝くために地上(ここ)に来た。
●
文明の中で
規格化された人になるな。
「血」も「涙」もある人間を残せ。
死ぬまでは
「生きて在れ!」
…鉄板で焼かれた鯛焼きの鯛は、
泳げない。
●
いま、外にコロナ
内には人間の弱さ、脆さ。
どちらも強敵だ。
負けるな「人間」。
●
子どもは親の子であるまえに、大自然の子どもです。
子どもの小指1本、髪の毛1本、親には作れない。
●
人生は学校に似ている。
「誕生」は「入学」。
「死」は「卒業」。
その狭間で、多くを経験し、
もろもろを学ぶのが学校と人生だ。
「ご入学おめでとう」
「ご卒業おめでとう」と言うではないか。
だから「誕生」も「死(人生の卒業)」も
多くの学びと輝きがあれば
「おめでとう」がふさわしい。
●
【私的に愉しみ】
死ぬ1週間前までは人生を楽しむ。
残る1週間は、死を楽しむ。
無理かなあ……??
●
≪健康寿命≫
血気の維持+積もるストレスの解消が大切なようだ。
●
【主語】
ここ半世紀余
ぼくたちは特急列車に乗り込んで旅をして来たので
なんと多くを見落としてしまったのだろう
小さな野の花の命のきらめきを見落とし
せせらぐ川のささやきを聞きもらし
鳴く蝉の命限りの訴えと喜びを聞き止めることなく
石ころの声ない語りを読み解くこともない。
なぜ自分が地上(ここ)にいるのかをさえ
尋ねようとはしなかったではないか。
もう
物をのみ楽しみとせず
命をも楽しみとし、
肩書きを求めるより
人間を求め
自分を求め
修飾語より
主語に思いを馳せて生きる道。
大資産家になるためには
ロックフェラーや
ビルゲイツ、
ジェフベゾスに倣うしかないわけではない。
小さな自家の塀を取っ払い
宇宙と一体となって
宇宙を自分の資産として
いとおしく抱きしめる。
そんな人生も
真実人生であったのだということを
胸の糸車の糸をカラカラとたぐり
地平の向こうに消えてしまいそうな
自分自身の「意味」を呼び戻しながら……
いま右手で得た物以上を
左手が失ったのかも知れないことを想うとき
愛する家族たちの住処(すみか)への
帰る道筋を忘れた酔人のように
この都会の路傍にうずくまり
しずかに涙を流せ・・・
*ジェフベゾス=「アマゾン」の創業者
●
「使う」はいい。しかし「ムダ」はよくない。
それは折角の存在を「生かす」のか「殺す」のかということ。
●
きっと誕生は入学式。
約90年間
人間やら自然やら社会やら経済やら
不幸について幸せについて
金銭やら異性について
喜劇に泣き悲劇に笑い
経験を積み本を読み話しを聴き
ちょっびり輝きを知り愛を知り
人生教室で学生生活の多くを学ぶのだ
学んで約90年
そしてようやく卒業を迎えるのだ
優等生だったか劣等生だったかは分からない
とにかく約90歳晴れて卒業式を迎えるのだ
だから葬式は悲しまず
「卒業おめでとう!」と祝って
明るく送ってほしい。
●
民主主義と社会主義の間でしばしば争いが見られる。とかく既得権益やこじつけ、行き掛かり、面子、ペナルティーの応酬等がからんで争いが肥大化複雑化する。強がりたい事情は双方にあるんだろうが、肝心な視点・論点が忘れられ、見えなくなっていることが多い。要は、いずれが普遍的人間性に合致しているのか≠ニいう根源的かつ単純な視角が出発点であるべきではないか。
●
以下【人生教室】で学んだことの、一つ、一つのこと……
●
「音楽」と「大自然」は、神からの文字のない手紙。
●
先ず「主語」を生きる。
主語を盛り立てるため、補佐的に「修飾語」を用いる。混同しないこと。
●
「物」は盗まれることがある。洪水や火災で失うこともある。
しかし命ある限り「実力」と「内実」は盗まれることはない。
●
【私】は【私】
●
人は、とかく他人に対しては批判しがちだが、自分に対しては無頓着であることが多い。
なぜなら、他人は肉眼で見ることができるが、自分は心眼を持たないと見えないからだ。
心眼を持つには、客観的公平な思想と自我を乗り超える勇気が必要となる。
●
【価値、輝きと私】
私たちの命は殺生の上に成り立っていると言っても過言ではない。生存を果たすために、日々動物・植物たち、膨大な数の殺生を繰り返して来た。殺生と言えば聞こえは悪いが、私たち人間への他の命の融合・参画である。融合のトータルともいうべき形で私たちの命は成立している。顧みれば私たちの体内(腹の中)には、幾億とも知れない生命の屍が累積されているわけだ。この命たちを統括する者、代表者として人間各人が存在している。
ここで私が大切に思うのは、折角の命を遺棄し、私たちへと変身してくれた生命たちの包括者として、私はふさわしい生き方をしているのかという根源的・道義的なテ−マである。無為に命を生きてはいないか? 無数の命に輝きを与えることもなく、頓死させてしまってはいないかということである。もし私が輝けば、無数の殺生された命も同時にいのち色に輝き、命の遺棄に甲斐を与え、一段の高みへと立ち上らせることも出来る。……そんなふうに思えて仕方ないのだが。
●
殺生された動・植物を「再生」させるには、自分を「再生」させるより方法がない。
●
<昨夜、夢を見た>
天龍寺近くの川沿いの道を
上流へと遡って歩いていると、
1頭の老牛が近寄ってきた。
なんでも「成仏をしたい」と言う。
痩せて、毛が抜け落ちている。
「一緒に行こう」と言うとついてきた。
目が醒めた。
なんとなく悲しい。
●
人はきっと輝くために生まれてきたのだ。
ことに「愛」と「真実」においてである。
●
≪2種類の視点≫
ズボンのウエストが小さ過ぎると思う人。…(他罰傾向)×
自分の腹が出過ぎだと思う人。…(自戒傾向)〇
●
≪育てる≫
ビーカーの中に、真綿を敷き、少量の水を加え、そこに「一粒の豆の種」を置きましょう。
そして光を与えてやることです。
豆はやがて自分の力で芽を吹き出すことでしょう。
必要以上に豆をつつくと、豆は死にます。
人為を整え、自然を信じましょう。
≪豆の底力≫を信じましょう。
●
子どもは親の子である前に、大自然の子どもです。
だから親の意思に反して恋愛を推し進めることも出来ます。
「親がいなくても子は育つ」も可能なのでしょう。
人間はみんな大自然の子どもです。
そこから私たちの全てが始まります。
●
私には一定の宗教、イデオロギーへの固執はありません。
強いて言えば真実と人間への執着があるようです。
ことにその愛と涙についてです。
それでいいと思っています。
●
子どもたちへ………
「人は何のために生まれて来たのか?」
答え………☆輝くために
@ よく勉強をして、かしこい人になって
世の中の役に立って輝く
A 感謝すべきことを多く見つけて、にこにこして、
自分と他人をしあわせな気持ちにして輝く
B 人が見ていてもいなくても、
正しく行動をして真夜中の星のように輝く
C いいお母さんになって、
子どもたちとおむこさんの前でキラキラ輝く
D 「おはよう」「こんにちは」
気持ちよくあいさつをして輝く
E 自分が持って生まれた特性を
ねばり強く努力で向上させて輝く
F 暗闇の中人々の先頭に立って進み、
一番列車のヘッドライトのように輝く
G アスファルトを割って咲く花のように
力強く生きて輝く
H ひとり心を深く磨いて輝く
I 泣いている人の背中をそっとなでて、少し輝く
J 懸命に人生を駆けて転んで、膝を擦りむいて輝く
K 愛し愛されて輝く
L 清らかさに輝く
M その他
●
(パートU)「体があるのが人間だということ」
人は「輝くため」に生まれてきました。
輝くためには、「輝き」を求め、支えるための「体」が必要です。
体がなければ人間ではなく幽霊かも知れません。
「体」を継続して支えていくには、
「衣」「食」「住」、すなわち「着るもの」「食べるもの」「住むところ」が必要です。
それらをゲットするにはたくさんの「お金」がいります。
「お金」をゲットするためには、お金をたくさん持っている「社会」に貢献することが必要になります。
その貢献が「働く」ということですね。
「勉強」が大切だというのは、この「社会」に大きく貢献できる人間になるために
まえもって栄養分をたっぷり吸収しておくことになります。
「さあ、たくさんの栄養分を吸収して、自分を輝かせていこう!」
●
人は、有機化された炎。
●
自分を大切に=他人を大切に
他人を大切に=自分を大切に
●
内面が乏しいと自らが「不幸」の穴を掘る。苦しみながら穴を拡げる。
拡げた穴に周囲をも自分も引き摺り込む。悲劇だ。
●
「宗教」に根ざす根本的排他性。
共生の社会=愛。
●
一宗一派、一イデオロギーに所属しない。
耳をすまし、目を凝らし、
自分の心で立つ。
私が私に産まれたことの神(又は大自然)の指名を
捨て去らない。
●
いま、敢えて言おうか……
◆他力を待つな。
自分の手、
自分の足、
自分の汗、
自分の爪痕を地球にわずかでも残す。
それがここ(地球)に生きたことの<証(あかし)>
☆
爪痕…………
社会的に事業を残す。
財を残す。
名声を残す。
色々あるだろう。
しかし、最も大きなものは
人間を残すことだろう。
なぜかと言って
人間こそが
あらゆる可能性を内包しているからだ。
●
人生「順風満帆」の晴れの日続きの航行もあれば、
深く暗い「海底の航行」を余儀なくされる時もある。
しかし、<貴重>なのは後者だ。
●
“一億総活躍社会”……
一部に“何のことやらさっぱり判らない”という情けない大人たちがいるようだが、私にはよく判る。
“老”にかかわらず、“若”にかかわらず、“男”にかかわらず、“女”にかかわらず、“子供”にかかわらず、一億数千万人全員が精一杯自分を活かし、輝かせ、それを原動力にして「日本」全体を盛り上げていこうということだ。
そこにしか「この国の輝く未来」はないのだという指摘だ。
かつて太宰治が言った「鍬を持つ者は鍬を、鋤を持つ者は鋤を持って立ち上がる」なのだ。
●
「賢い」には複数あることを知った。
一つは、いわゆる記憶力が豊かな賢いであり、「賢い」の代表格として人々に理解されているものである。
もう一つは心配りや相手の立場、心情を測って言動できる聡明な「心」の賢さである。
言い換えれば、多くの選択肢の中から最適なものを抽出し、即座に行動できる能力のことである。
●
日々に受ける様々の「プラスの恵み」に加えて
人々を揺さぶり落胆させ、
災いとも見える「マイナスの恵み」。
その大自然と神の計らいの深遠は、
子どもへの親の正しい叱咤激励にも似ている。
「プラスの恵み」と「マイナスの恵み」が
共に恵みであることを知るに至るとき、
こころの苦役の夜は曙へと向かい新しい朝を描出し、
「神は愛なり」の聖句も実証され、胸の内に成就していくのだ。
これを数学の表現方法を借りて表すと
恵み=│− 恵み│
(ブラスの恵みイコール絶対値マイナスの恵み)
であり、負の恵みに絶対値を架ける力は各個人の
「人間力」即ち内的処理能力に掛かっていると言える。
*
神は全ての人に一枚の恵みの手紙を手渡した。
表面には与える「プラスの恵み」について書かれてあり、
裏面には与える「マイナスの恵み」について書かれてある。
たとえて言えば、
表面は「かな中心」で書かれてあって読みやすいものだが、
裏面は全面漢字又は外国語で綴られてあり、
語学力の足りない人間には難解だ。
*
以上に加えて、いま考察していることがある。
それは上記の「プラスの恵み」と「マイナスの恵み」の中心点
零原点の存在だ。
この零原点が、
仏教等で言われる「無」又は「悟り」の位置なのではないか、
ということである。
「零」は全てのプラスとマイナスを吸収し、支配する。
「ゼロ」は宇宙科学で言われる
ブラックホールに似ているというのが、
今の私の仮想である。
●
AKBに所属しなくても
女の子なら ほほえめば みんなアイドル。
●
きのうまでの積み重ねがきょうの私。
きのうまでの積み重ねがきょうのあなた。
●
勉強とは、「人生ゲーム」のアイテムをゲットすることです。
君はTVゲームをしたことがありますか?
生きている君は、毎日人生ゲームをしているゲーマーなのです。
毎日、君の目の前を、
君が自由にゲットしてもよいいろんなアイテムがながれてゆきます。
上手なプレーヤーはそれを捕えて自分の味方、武器、力に変えてゆきます。
しかし、ヘタクソなプレーヤーはそれに手を伸ばすことなく
どんどんスルーしてしまいます。
これでは上手なプレーヤーにはなれません。勝てません。
君は「勉強」という名のアイテムをゲットする上手なプレーヤーですか?
それともスルーさせてしまっているヘタなプレーヤーですか?
算数の計算が上手になるのもアイテムのゲット。
国語の漢字を多く覚えるのもアイテムのゲットなのです。
それらは近い将来、きっと君の味方、武器、力になってくれるでしょう。
どうせ人はみな毎日がゲーマーなのです。
君はきょうから、上手なゲーマーに自分を変身させませんか?
●
子どもは、親の子どもである前に、
大自然の子。
●
ビーカーに真綿を敷き、種豆を置き、そこに水を注いでやります。
大切なことは豆を過剰につつかないことです。
光りを当ててやれば、種豆は発芽し成長していきます。
●
大自然を信じなさい。
水を信じなさい。光を信じなさい。
種豆を信じなさい。
●
己を「物」に支配されることなく、「己」を生きる。
わきあがる生命の完成への手段として「物」を生かす。
(主体の確立/拝金主義・出世主義からの脱却)
●
はじめにイデア(理念)=大生命があり、イデアは自らの言葉としてカオス(混沌)=物を産んだ。
「物(物晶)」は「理念」のあとに従う。
●
人類は文明の進歩と共に「便利」になったが、「幸せ」になったかどうかは別である。
それどころか、「便利」と引き換えに「不幸」を招き込むことさえある。
●
アタマが「賢い」、と
ココロが「賢い」があるが、
アタマが「賢い」と
とかくもう半分に気づかないまま
エリート意識に至ってしまう人も多い。
若者よ、子どもたちよ、私も込めて
アタマとココロ2つの「賢い」を日々丹念に積み上げて………
ちょっと格好つけて言えば、
この凍える季節の中で、
「めざせ陽の当たる場所!」
「めざせ愛に溢れる場所!」
ということだ。
●
鳥は鳥を果たせばいい。
虫は虫を果たせばいい。
人間は人間を果たせばいい。
男は男を果たせばいい。
女は女を果たすことだ。
それが神の摂理、自然法だ。
それを離れるところ
〈不幸せ〉と〈不誠実〉が忍び寄る。
●
泣いたり笑ったり、それが出来るのも地上(ここ)にいるからに違いない。
私がここに登場したのは元々男と女がいた結果だ。
男は鵜の眼鷹の眼事あるごとに女を選別して、目指す女にぞっこん惚れ込んだり猛進したりする。
出会いが運よく合致すればよいのだが、相互にズレが生じたりすると、
妙に孤独感にさいなまれたり、ストレスを感じて、代役の女性を求めたりする。
男は所謂「女を買ったり」、好みの女性を消極的にネット映像の中に求めてみたりもする。
ズレが生じたとき、女は……泣くのかな、酒をあおるのかな、とめどもない買い物を敢行するのかな……。
ともかく、神は男に過剰に女への嗜好性を持たせ、女にはそっと吸引性も与えたようだ。
仕方がない。不幸な夜明けには、乱れた髪を整えながら、男は女に必ず「ありがとう」を言おう。
女は「いいえ、お元気で」とあいさつを交わそう。そののち、
こころさびしいのは、女の方かもしれない。
いや、男の方かもしれない。わからない。
とにかく、人間だからということだ。
●
人間に安易に数字をあてがうな。
文字化けした答えをはじき出してしまう危険が大きい。
【きのうの交通事故死者 3人】とある。
しかし【3人】が死んだのではない。
即ちドラマが亡くなったのだ。終わったのだ。
そしてその周辺への波及が止まることだ。
●
【人間を求めて】
ぼくたちはいつの間にこんなにひ弱になったのだろう?
人は人生の始めパンツもはかず、小銭も持たずこの世に登場する。
その日、人は精子と卵子の中に三つの力をみなぎらせていたわけだ。
即ち、新しい場への「勇気」と「信頼」、
加えて登場しなくてもよかったのかも知れない人生
それに敢えてチャレンジをする「ベンチャー精神」
これが本来の「人間」なのだ。
ところが生誕後人は時と共に多くの「状態」やら「物」を
まるで垢苔のように付加させていき、
果てしないエゴイズムから保身に執心、
とかく他人を信じられなくなってしまった。
互いにそれが前提の社会を作ってしまい、
狭いオリの中に自らを囲って初心を忘れ、大自然を離れる。
いつしか自らを窒息させ、<いのち>を見失っていくのだ。
神経症に悩んだり、文明病に冒されたり………
さびしいことだと思うね。 涙があふれてくるよ。
保身の鎧(よろい)は「人間」ではない。
垢苔の奥に息づき、鎧の奥に鼓動する「人間」だけが<いのち>なのだ。
●
わたしたちはときどき「どうしてあんなにいい人がこんなことに」と言う。
アクシデントはとかく人を選ばず訪れる。
そのとき周囲の人たちの分まで苦しみを引き受けてくれているわけで、
仏教ではそれを「代受苦」といい尊い行為と位置づけられているという。
●
老後の面倒を息子・娘たちに看てもらおうという保身の予定が心にあると、語り告げておかなければならない伝承を正しく語れなくなる。人間のタテの絆が希薄になるわけだし、息子・娘たちは不可視の相続遺産を手に出来ないことにもなるのだ。子を愛し子孫を思えば、保身は捨て、語るべきは語るやさしさを実行しなければならない。
「象」は自ら自分の足で死に場所を見つけ、終わる。自然へと吸収される。
それでよい。
●
仕事場で部下を叱ることが出来る上司は今5%程度だというデータがある。「パワハラ」やら「セクハラ」や、とにかく「反発」が混乱や面倒をもたらし、叱れないという。その間に職場での知恵の「伝承」や「教育」が不可能となり、同時に日本のタテの絆が崩れていくわけだ。上記前節同様に不可視の社会的相続が実行されず終わり、次世代と日本はまた一歩「貧困」へと向かうのだ。
●
社会へ貢献した分量と
社会から受けた恩恵の差し引きが、
個人の社会的加算貢献量となる。
●
人生は一度きり。
ならば内面を整えて
好きに人生突っ切って走るか!
●
尺の短い者が自分より尺の長い人に己を押しつけることを「傲慢」という。
●
「伝承」とはタテ又はヨコ方向からの「相続」のこと。
受ければ受けるほど豊かになるのだ。
父よ、母よ、祖父よ、祖母よ、あらゆる指導者、忠告者たちに、
「感謝!」また「感謝だ!」、そして「今後もよろしく」だ。
●
私は個人であって全体の一部。
個の私も尊重しよう。全体という私も尊重しよう。
女性の権利というものがあるのだとしたら、
男性の権利もある。
いうならば、全体の権利だってある。
●
ほとんど「偉大なもの」は「優れた心」と共にある。
●
挑戦とは外に挑むことではない。内なる自分に挑むことだ。
勝つとは己に克つこと。
●
人は自分のレベルに合ったものを楽しく思うし、しあわせと感じる。
ノドが渇いたときのコップ一杯の水、空腹時の一個のおにぎり……
●
この終末は「象」のように。
この終末は命題を終えて流される「紅鮭」のように。
●
心の根底に「赤ん坊」を引きずれ!
「赤ん坊」を手放すな!
それは大自然の乳房に繋がること、
薬師を経由して大宇宙の命に繋がること、
それはあろうはずもない孤立を回避することでもある。
老いて死ぬまで「赤ん坊」を引きずれ!
「赤ん坊」を手放すな!
「勇気」と
「信頼」、
そして「ベンチャー精神」
●
◆忘れられない言葉 1
愛の力について。
「象の首に鎖をくくりつけ、力づくで引いてもゾウは動きませんね。
しかしゾウと愛情で結ばれていれば象は黙ってついて来ます。鎖はいりません」
これは40年ほどまえ呉市に住んでいた当時、
近くのカトリック教会で聴くことが出来た
神父の忘れられない言葉である。
◆忘れられない言葉 2
田舎のMおじいさんが昔話してくれた言葉。
「世の中とかく得か損かと考えるけんどな、それは一つ桶の中の水みたいなもんじゃ。
どうぞって水をお向いさんに差し出せば、水は回って脇から戻ってくるし、
わしがって手前に掻けば水は脇から回って逃げていく。不思議でも何でもないわな」
●
垢苔ではなく「人間の力」の花。
「勇気」の花。
「信頼」の花。
「ベンチャー精神」の花。
花は眺めるものではなく、生きるものだ。
●
【パンツ】
何枚も重ね着をしたカビ臭いパンツをぬぎ捨てる。
たった1枚真新しいパンツにはき替える。
それでも初めにパンツがあって人間が入るのではない。
人間があってパンツをはくのだ。
ここが大切だ。ここが大切なんだ。
パンツは道具、主体は「人間」だ!
時々こんなことがあるんだよと
パンツが困惑顔して言ってたね。
「パンツに人間が体を合わせてくれるんだ。
ぼくたちはそんなに偉くはないので戸惑ってしまうんだ」って……
「物」は人間の<いのち>に参加することで
初めて<いのち色>に輝き
子どものように小躍りを始める。
「みんなのために」
それを合い言葉にして
君は君の<いのち>のハンマー
ぼくはぼくの<いのち>のビーカーを手に取ることだ。
すると、
ハンマーとビーカーは
ぼくたちの<いのち色>と同色に輝き
生き生きと、声高く<いのちの歌>を合唱し始める!
●
「敗北」…その中から何を拾い上げることが出来るか、それが人間力。
●
まだ多くの「物」たちが<いのち>を得ていない。
●
時代は資本主義という物質主義の中で、人の心を置き去りにしてどこへ行こうとしているのでしょう? 鉄のロボット犬で人は癒されるものなのでしょうか? 代用物で一時誤魔化せたとしても、しょせん人は母なる大自然もしくは人の心でしか癒されることはできないと思います。
●
いま私達がこの文明とともに幸せになりつつあるのでなければ、文明自体を一度検証することも必要だ。
●
イデオロギーなんてウソっぱちかも知れないゾ。人間の構造、大自然の構造に合致したシステムに生きるのでなければ、人は幸せになれないはず。不自然はダメだ、不自然は人にとって根本的に矛盾なんだ!
●
「宗教」の独善的排他性、それがどれだけ多くの犠牲を生み出して来ただろう。人の命を奪い、傷つけ、住まいを奪い食を奪い教育を奪って来た。その一党の中に安易に身を置くことを避けるには、自らが心を凝らし目を凝らし「真」(まこと)を見極め、獲得していかなければならない。
それもまた「人間力」の一つだ。
●
【人間のためのファイテング・リング】
ハート……愛や優しさ、思いやりに理性、
よいものが打ち負けてしまってはならない。
腕を鍛え、足を鍛え、腹を鍛えて強さを兼ね備えなければ………
かと言って、強くなったとき
本質を失っていたら、なんにもならない。
●
きのうまでの積み重ねが、きょうの私
きのうまでの積み重ねが、きょうの僕
知識であれ
技術であれ
愛情であれ
信条であれ
財産であれ
……どんどん積み重ねるがいい。
●
およそ人間にとって「苦痛」とは「自然性」との矛盾に起因する。
●
【人間記念日】
いつのことになるのか分からないが、未来へと進む人類の前進、その車軸を回転させる原動力として現在使用されている「エゴイズム」を、「ハート」に取り替えることができた日、前進は初めて「けだもの」を離れて人間にふさわしいものとなる。
だから私は「ハート」を原動力とした存在をこそ「人間」と呼びたいし、それを実現できた記念すべき日を、
【人間記念日】
と制定したいと思っている。
現在の「エゴイズム」を中核とした資本主義的前進は未だ進化論の「けだもの」をひきずったままの前進なのだ。
だから人間同士争いが絶えないし、腕力、又は他人の目を盗んで、自分だけが多くを巣に持ち込もうと企んだり、ときには暗闇とか金銭で異性をねじ伏せて欲望を果たしたりと、こんなにも暴力的且つ幼稚なのだ。進化論から言っていまわれわれは、人間道中のほんの始まりに立っているのだろう。
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神は人間の前進のために「エゴイズム」と「ハート」の二種類のエンジンをわれわれに提供しているようだ。
そして、イデアはこう言うのかもしれない。
「お前たちの自由だ。さあ、どちらでも好きな方を選ぶがいい」
「全部自由だ」とイデアはつづける。「本当の価値も責任も、自由の後にしかやって来ないからだ。だから私はいつも二つのものを選択肢としてお前達人類に提供してきた。意味と無意味、光と闇、栄光と堕落、繁栄と衰退、高邁と低俗、やさしさと冷淡、エゴイズムとハート、好きな方を選ぶがいい……………」
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企業活動を通して社会に奉仕することを目的とする=i法人定款)
ホントかなあ?
裏で蠢く「企業エゴ」……….
進化の流れに逆行するかのように資本主義企業はますますそのエゴに沈み、
良心と社会的責任を視界の外へ押しやり利己の海に身を沈めていく観が大きい。
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ある酋長が言ったそうです。
「日本人てそんなに物に囲まれていないと幸せになれないのかね」
いいえ、物に囲まれていても幸せでないように思えるのです。
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あるアメリカの高官が言いました。
「私の家庭はね、愛情に満ちていてすごくリッチなんだ」
いいセリフだ。
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まず自らの<いのち>を掘り下げる。
次にそれを現実化(実現)させるために必要な「物」を寄せ集め、肥えた馬として活かす。
(注意:不用のゴミは溜め込まない。それは誰かの汗と涙、無駄に地球を汚すことから作られている危険性が大きい)
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ぼくたちの狭い部屋は意味もなく物にあふれて、かえって息苦しくなってしまった。
物を購入するとき、ぼくたちは値段とは別にもう一つの計算をしなければならない状態だ。
取り込んだ物がぼくを幸せにしてくれる分量とぼくを息苦しくする分量の差引勘定のことである。
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「物」は<いのち>を果たす分量と、ちょっぴりにんげんの弱さを癒す分量あればいい。
それ以外は蛇足、又はゴミである。
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「ハート」エンジン、それが実現するまで、人は「刑法」と「刑務所」、「警察」と「他人の目」という外力のお世話になりながら生存するより他はない。それは監視された一種の奴隷的状態である。
「もっと自由を!」「解放を!」それには「主体の力だ!」
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「みんなのしあわせ」という「視点」がなければ、<己>と<いのち>は完成しない。
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【最悪のジョーク】………マネーという物差しで人間の身長を測る。(主従の倒錯/成金又は貧乏の思想)
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私は誕生の前夜、どんな「理由」を見たのだろう?
君は誕生の前夜、どんな「ゆめ」を見たのだろう?
それを忘れてしまったことが、地上での「迷い」「さすらい」「防御」「どろんこ合戦」の始まりだ。
しかしいま、逆算をしてほんの少し思い出せそうな気がするではないか。
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「物」にもたれかからず「人間」の足で立つ。
「肩書き」にぶら下がらず「自分」の足で立つ。
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人は純粋に恋愛をしたとき、一切の「条件」「状態」を排して<いのち>に目覚める。
するとこの世の「条件」と「状態」の手垢にまみれた親だとか親戚だとかが登場して「条件」や「状態」を根拠に反対の狼煙(のろし)をあげたりする。そこで<いのち>と<手垢>のバトルが展開されることになるのだ。
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厚すぎる鎧(よろい)を着ると疲れてやがて動きが取れなくなる。
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エゴイズムという虫捕り網をふりかざし、「状態」を追っ駆け回して日が暮れて自分という「人間」を街角に見失ってヘタリ込む。
人間にとって………「人間」を離れる所、幸せはない。
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身の周りに築くバリアの厚さは、とりもなおさず他人との距離の厚さとなる。
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金持ちが2丁目から3丁目までつづく大邸宅を建てた。
他人の土地とを区別するため、
長く四角い塀を立てめぐらせて邸におさまった。
貧乏な青年はあばら家に住んでいたので
彼の家には塀などなかった。
だから、彼は町じゅうに住んでいるのだった。
社会に住んでいた。
国に住んでいた。
地球に住んでいた。
宇宙が、神のふところさえもが、彼の住家だったのだ。
塀が、己をこそ制限することに
金持ちはまだ気付き損ねたままのようだ。
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「裕福」か「貧しい」か、
「健康」か「病気」か、
「社長」か「平社員」か、
…………………………
「裕福」は流れて「貧しい」に変わるかも知れません。
「健康」は一夜にして「病気」に変わるかも知れません。
「社長」は倒産して他社の「平社員」となることがあります。
またそれらの逆もあるわけで、
それらはゆらめき流れ変動する〈状態〉にちがいありません。
それら〈状態〉の奥に在る不動の〈実体〉が「人間」です。
〈状態〉のために「人間実体」が損なわれるのは主客の転倒、間違いです。
【人間の条件】
私は次の三っつを挙げたいと思います。
@心には心をもって応えられる自分であること。
A礼を粗末にしないこと。
B精一杯誠実であること。
「貧しい」「裕福」「病気」「健康」「平社員」「社長」………
それら一切と関わりなく、
「時代」とも関わりなく、
「場所」とも関わりなく、
私たちにはひとときも失ってはならないものがあります。
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人は〈状態〉に多く目を奪われて、とかく人間〈実体〉を忘れる。〈状態〉が運よく展開しているうちは大小さまざまな〈状態〉のボードに乗っかってこの世を鼻歌まじりに波乗りジョニーよろしくすべっていくのだが、突如大波にボードをさらわれ投げ出されるとたちどころに大波小波に翻弄され溺れて呼吸困難に陥る。この世は絶好の波乗り場でもあるのだが、波乗りをする者は全員、ボードがなくても自らが泳げる力を身に付けておくことが大切だろう。結果から言うとそれが「人間の力」だとも言える。
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死線をさまよいながら、ベッドの上で老人は言いました。
「……孫娘の………涙こそ………わしの、カ・ン・ゲ・キ!……」
そうだ。人生最大の健康な感激は、自分の命が確かに継続されていることの確証を手にすることだ。
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たった一度、安気に語ろうか。
いや、安気ではない。これは深刻だ。
私の【健康長寿】
自分の長寿が 他者の犠牲、
ことに後に続く若い人たちの犠牲の上に
成り立つことがないように努力!
@ よく食べる。
A よく運動する。
B 頭を使う。
C 日々に新しい刺激を受ける。
D 命に「青さ」を残す。
E ストレスを溜めない。
F 酒・たばこ・過剰な糖・塩分を避ける。
G 子どものようにTVゲームに親しみ、
脳トレに励んで痴呆を避ける努力!
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平等かどうか、他人の茶碗と自分の茶碗のメシの分量を見比べるために目や脳があるのではない。
あぐらをかくために足があるのではない。
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【ネコの論理】
ネコにとって魚は大切です。しかし、ネコにとってそれ以上に大切なものがあります。それはネコ自身です。自分がネコであるというたった一つの実体です。
人もまた同様です。預金残高だとか、便利だとか、家屋だとか地位だとかは、人にとっての魚です。ネコが魚を失うか、ネコ自身を失うかを迫られたとき、なんという知恵なのでしょう。ネコは魚を捨てて逃げ去り我が身を残します。人もそうでありたいものだと思ったりします。
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愚かな人間は己が恵まれなかったことを数える。
優れた人間は己が恵まれたことを数える。
最も優れた人間はその両方を数える。そして、いずれもが恵みであったことを知る。
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じろさん たろさん いちろーさん
♪一番リッチは だ〜れ??♪
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やがて乏しい年金支給が始まります。
人生てたったこれだけでオシマイなのですか?
時は流れ、人は老います。……すべては過ぎ去りやがて終わります。
そのたゆたいゆらめく営みの中に、
確かなものは何なのでしょう?
どれだけ遊んだか、ウマイモン喰ったかではなく、
人は夜空に煌めく星のように
〈輝き〉に急がなければならないと思います。
わたしも変わらず力一杯人間をします。
コスモスの花、リラの花、ひまわりの花、
わたしなりの輝きの花を咲かせて生きたいと思います。
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強さを生きる。
弱さを生きる。
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詩『卒 業』
人生は学校に似ている……
誕生は「入学式」で「おめでとう!」
死は「卒業式」でやっぱり「おめでとう!」
人(学生)は「誕生」と「死」
二つの「おめでとう」の狭間で
何を心に学び取るのか?
心に単位は取れたか?
「胸の中に宇宙からの単位をとりましたか?」
「胸の中に愛からの単位をとりましたか?」
「胸の中に涙からの単位をとりましたか?」
「胸の中に孤独からの単位をとりましたか?」
それが肝心なこと
入学もうれしいし
卒業もうれしい
今、私76歳。
卒業がだいぶ近づいたはずだ
心の中に単位は蓄積されたか?
いつ卒業の許可は戴けますか?
ねえ、神様。
*
生まれるは めでたく。
生きて在るも めでたく。
老いて力衰えるも めでたく。
終えて 死ぬも めでたく。
一切は神(又は大宇宙のイデア)の掌中のこと。
●
花は咲けばいい。
命あればいい。
もし今度生まれ変わるのだとしたら
名前のない世界。
●
人間として
喜ぶことが宝
悲しむことが宝
憤りが宝
笑うことが宝
泣くことが宝
豊かさが宝
ぎりぎりが宝
楽は宝ではなく
苦こそが宝
出会いが宝
ときめくが宝
愛する日々が宝
愛なくさまよう日々が宝
前進は宝
つまずきが宝
間違いは正して宝
ひとつ積み上げて宝
積もり積もって宝
生きて宝
●
生と死は繋がっている。だから人間は死ぬことが出来るのかも知れない。
●
多くの人は自分が思っている以上にしあわせな状態にある。
気づかないか、無視している。
そして自分を必要以上に悲しんだり卑下して
それこそ墓穴を掘ることも多い。
●
死ぬ10日前まで人生を楽しむ。後の10日は死を楽しむ。
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嘆くな、驕るな。
「人類」は、中途半端。宇宙進化の中間地点の存在。
生命リレーの「アンカ−」であろうはずがない。
●
【統括】
人が人として生きるための基本的構築について……
中学校で数学の時間に習った2元1次関数の縦軸(y)と横軸(x)のグラフを
思い出してほしい。
このyの縦軸を〈理念〉=哲学、思想、モラル等の心的軸とする。
xの横軸を〈生業〉=衣食住、生活、収入獲得等の肉体的物質的軸とする。
人として生きるということは、
この双方を同時に満たす自分なりの一点(x.y)の値を求め希求して生きることだと思う。
常にこの一点は右上方の第1象限xy両プラス面上にあることが鉄則だし数値は高いがいい。
学校等を終了して社会に出ようとするとき、必ず社会は君に尋ねて来るのだ。
「オマエは私に売ることが出来る何を持ち合わせてそこに立っているのだ?」
「卓越した知識かね?」「卓越した技能かね?」「有用な資格かね?」「それとも闘志かね?」
「強靭な体力かね?」「潤沢な財力かね、有力なコネクションかね?」……と。
「あのう…、そのう…、えっと……」口ごもってしまうようでは社会は冷徹にこう応える。
「もういい。去ってくれ。ただオマエが若い女性ならもう一度尋ねよう」
「スタイルはいいかね?」「美人かね?」「もしそうならオマエは別の場所に案内しよう」
急げ。用意しろ!!!
■あとがき■
あれこれ書いてまいりましたが、
一つでもあなたの心のなかに記
録されるものがあれば幸いです。
最後までお読み頂きありがとう
ございました。インターネットとい
う社会資産があればこその一期
一会かと思い、よき時に生きるこ
とができうれしく思います。
木村長世
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=全129編=
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