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渇望こそが「第一章」
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「正義」を内包した「力」こそ有効。
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私は《創作》という言葉を聞くたびに、中学生時代の放課後を思い出す。
掃除の時間に私は自分の息を吹きかけながら教室の窓ガラスを丹念に磨いたものだ。
《創作》というのは人々の手でまだ磨かれていないくもり部分を見つけて自らが磨き、
クラスメイトたちにほんの少し多く光を届ける作業なのだ。
あれから何年途方もなく窓ガラスに向かっているのだろうか。
私は今日も窓ガラスを磨く。
しかし私が光を生み出したことは一度もない。
太陽の光を採り込もうとしているだけだ。
その意味で《創作》という言葉は当たらないように思えるのだ。
私はあの日の中学生。
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私に光を生み出すことはできない。いかに映し出して見せるかだけだ。
もし私に光を生み出せるとしたら、それはただ私自身の生き様に於いてである。
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創始(はじめ)に神は人間の前に曇りガラスを置いた。
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カゴの中、1わのウサギが立ち上がって太陽の匂いを嗅ごうとしている。
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「音楽」と「大自然」は
神から人間への
文字のない手紙
=(読むか? 読まないか?)
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【コロナ災禍】
あわてない。「冷静」と「努力」。
人類はコレラもチフスも超えてきた。
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「愛」を根拠に奇抜さをも恐れない。
コロナの時代にふさわしい新しい発想を。
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嘆くな。
己一人と思うな。
みんな生きていることの道程(みちのり)。
誰もが同じことなのだ。
嘆くか、
嘆かないか。
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目に見えないものの中にも
大切なものがある。
不確かなものの中にも
人間にとって貴重なものがある。
それらを切り捨てるのが〇〇主義。
もう一度不確実なものの中にも
輝きを探してみようではないか。
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今、愛おしくてたまらない人がいますか?
今という貴重な時が過ぎ去ろうとしています。
今、強く抱きしめたいものがありますか?
あなたは両腕にそれを強く抱きしめていますか?
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人間にとって
欠かしてはならないものが
三つあるように思います。
「空気」と「水」と澄んだ「音楽」と。
なぜかいずれも「透明」です。
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人は、頑張ってはなりません。頑張る、は、心と行動の間にギャップがあります。
矛盾を抱えています。まず心を整えることだと思いますね。
もしくは整っている心を行動すればいいでしょう。楽しくいい仕事が出来ると思います。
大好きな恋人とのデートに出掛けるとき、頑張る必要はないと思います。必要とあれば、おのずと駆け出しもします。駅の階段を駆け上がりもします。だけど、頑張っているわけではありません。心が恋人に向かっているだけです。「駆ける」はもどかしくも心の発露であるだけです。
頑張る必要はありません。人生に恋人を見つけることです。
「恋人は見つかっていますか? あなたの恋人、誰ですか? 人生の恋人、何ですか?」
「恋人とはいいおつきあい出来ていますか?」
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涙が思想を誘導する。
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音楽は正しい心の味方。
音楽は澄んだ心の味方。
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平和の中で平和を主張する人は、戦時の中では戦争を主張するかもしれない。
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イデオロギーを超えない限り人は「真実」に至れない。
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男性、女性という「性」にこだわっていると人間を鳥瞰できない。
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社会主義の中では不可解な精神性が語られることはない。
社会主義の中では不可解は排除される。
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自分の思想・信条を他人に押し付けようとすと、とかくトラブルを生む。
それが集団ともなればテロや戦争にもつながるのだ。
AもBもCもDも鳥瞰した上で、賢く思想・信念に至ろう。
思想・信条は広い視野の中で他者をも認めて、謙虚に持とう。
そのとき、思いは平和の中にキラリと輝く。
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あなたの剣は強い。
しかしもっと強い剣を持った者がこの世には必ずいるのだ。
常に謙虚こそが正しい。
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一生「今日」しかないのだ。
「明日」は幻。
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「いじめられるの好きですか?」「いいえ、きらいです」
「だったら、いじめるのやめましょう。
相手はあなたの自分です」
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【しあわせ】
しあわせになる≠フなんて、簡単さ。
「感謝」出来ることを思い出して、指折り数えて見ればいい。
そして次に大切なことは、
そのしあわせを自分と人々の上にどう生かすかということだ。
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叱られると逆切れする人は、苛立ちと争いごとを残すばかりで、
進歩できない。
反省こそが進歩を産む。
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原理主義にもいろいろあって、
わが国には「女性の権利原理主義」がちらほら。
原理主義というのは原石に似て
「なめらかさ」「たおやかさ」に欠ける。
もっと風雪に晒されないと日常にはそぐわない。
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死……土より生まれた者土へともどる。
温かくふるさとへと還る。何をか言わん。
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いま多くの女性たちに
「平等」の文字を
「おなじ」と誤読してしまった向きがある。
男になることを急ぐ女性もいて
過去長い歴史を通して
営々と女性達が汗と涙の中から拾い集め築き上げてきた
「女のパテント」「女のノウハウ」をさりげなく棄てる。
結果、いま多くの女性たちがパテントを捨て赤字に苦しむ会社経営者のような状態にある。
民主主義もいいけど、それとて一つのイデオロギー。
イデオロギーに生きるより、角張らずやさしく自然に生きようかな………
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いま日本は民主主義を批判、検討する目を失ってしまった。
それは国家をあげての民主主義信仰となってある種の宗教を見る思いもする。
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謙虚とは己の「分」を正しく知ること。
それをプラスに離れると傲慢、
マイナスに離れると卑屈になる。
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むしろ「思惟と行動」の純粋性がその人を決定する。
人格の決定は、その人の持てる資産額や名声、地位によるのではない。
ましてや腕力、テクニックにもよらない。
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【メタボ】
人は満腹になるとそれ以上は食べられない。
しかし、預金通帳という奴は満腹を知らないのだ。
だから果てしなく「もっと!」「もっと!」と
空腹の人の分まで奪い取って積み上げたがるのだ。
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「使う」はいい。物を生かす。
「ムダ」はよくない。物を殺す。
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少し頬張り気味に、ローンを組んで家族のために家を買いましたね。そう“生き甲斐とは、愛する者と自分自身のために責任を背負い込むこと”でしょう。
ある見方をすれば、背負った責任の大きさが、愛情の大きさを測るバロメータだとも言えそうです。
どんなに耳元で「愛してる」と囁かれたって、もし責任を背負い込むことを避けている相手なら、その囁きは一度疑ってみる必要があるのかも知れません。
“愛なくば、全ては瓦礫(がれき)”(フィリップス/フランスの小説家)
私の大好きな言葉です。
逆に言えば、“愛あれば”全てがきっと輝きはじめるのでしょう。
だから、何が“幸運”かといって、人を愛すること愛されることが出来た人こそが、輝きの中に住むことができて“幸運”なのに違いありません。
「住環境」といいますが、最高の住環境は「愛情」、その中に住むことです。
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【母の背中】
私は小学1年生だったと思う。ある朝目覚めると、少し頭が痛い。「風邪ひきかも知れない、風邪なら学校を休める」私はそう考えた。早速台所に立つ母の背に告げた。
「ねえ、母ちゃん、ぼくすごく頭痛い。風邪ひきみたいだけど・・・」私が学校を休みたいことを告げるより先に、母は言った。
「だったら、学校はお休みにしなさい。あとでお医者さまに行きましょうね」
私は少し困った。お医者さんに診察をされたら、病気が病気とも言えない程度のものであることが分かってしまうだろう。
やがて母に連れられ私は近くの小児科医院を訪れた。診察を終えて母が私に告げた診断の結果は意外だった。「ひどい高熱で、この子はよくまあここまで歩いて来れたものだ」というのであった。
医院を去ろうとする私の前に、母が背を向けてしゃがんだ。
「母ちゃん、どうしたの?」私はたずねた。
「負ぶさりなさい」と母が言う。
「いいよ。ぼく歩けるから」
しかし、もう一度母は繰り返した。「負ぶさりなさい」
仕方なく私は母の背にしがみついた。
母は若い頃、関節リュウマチを患って、左右の足の長さが3センチほど異なる。その母が小学一年生の私を負ぶって歩くのだ。母の体は、一足進むごとに二足進むごとに大きく左へ右へと揺れた。
一歩歩めば一度。二歩歩めば二度。母の傷んだ関節に私の体重がのしかかって“ギシギシ”と悲鳴を上げている思いがした。
私はもう一度叫んだ。
「母ちゃん、ぼくおりる! ぼく、自分で歩く!」
母は、息を切らせて歩を進めながら強く言った。
「いいから・・・負ぶさって・・いなさい!」
母の体は大きく左に振れて、その傷んだ関節に母の左足が棒杭さながらにめり込んで、私の体はそれを打ち込む槌になってしまって、振り落とされないよう必死に母の背中に私はしがみついて・・・
また母の体は大きく左に振れて、その傷んだ関節に母の左足が棒杭さながらにめり込んで、私の体はそれを打ち込む槌になってしまって・・・
また母の体は大きく左に振れて、その傷んだ関節に母の左足が棒杭さながらにめり込んで、私の体はそれを打ち込む槌になってしまって・・・
やがて母の背に必死にしがみつく私の胸に、温かく母の体温がどくどくどくどく伝わって来て・・・もうズル休みはやめようと思った。
母は私の仮病を見抜いていたのだと今思う。母に嘘をついて学校をズル休みした子を言葉ではなくやさしさでいさめようとしたのに違いない。その証拠に、投薬は一切無かったのである。次回の診察予約もなかった。
いまは亡き心深い母の思い出である。諭(さとし)である.
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「生きて 愛して 死んだ」(高橋玄洋)・・・いい言葉だ。
そんな人生を送れたらすばらしいね。
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ひとたび親になった者は、子どもの真実と幸せのために
必要に応じ「褒め言葉」と「苦言」を与え続ける勇気と
心の準備が必要です。
それには子どもに老後を見てもらおうなどという
わが身をいとう魂胆は捨てなければなりません。
「いつなりと一人大地に帰る」
一輪の野の花の心づもりが大切でしょう。
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いま「論理」の手の届かぬところ、人は「情緒と美意識(ときには祈りと愛)」をつないで、
完成への梯子をよじ登る。
論理のバベルの塔では天にまで届くことは殆ど無理だし、
異常気象を招いて大洪水でも引き起こすのがオチかもしれない。
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仮に、人が「精神」と「肉体」をもって構成されているものだとしたら、人の求めるところは次のようになるかと思う。
即ち、理念を求める直線と物質を求める直線の交点、二元連立方程式の解を把握することである。そこに俗世に生きるわれわれの求めるべき正しい姿が要約され、人の幸せもそこにあるのではないかと考えられる。
物質を求める直線ばかりを追っても果てしがない。それはやはり『欲望という名の、終着駅を持たない電車』なのだろう。

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何だっていい。深く掘り下げると総てに共通の地下茎の世界を見るに格うだ。
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この文明の行き着くところは、人工楽園?
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デジタル文明、テクニカル、情報処理、
マルチメディア、光ファイバー、ISDN、DVD、
DSL、ハイブリッド、インターネット、IT革命………
今夜はやたらと尾てい骨がかゆい。
ぼくの中の野性ザルがきっと文句をつけているのだろう。
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人間なんて大自然の鼻ッ先みたいなもんだ。
大きな体に支えられながら、
体で一番偉いのは、オレ!と、
鼻先をツンと突き上げて見せる。
一番淋しい歪んだ鼻先は、
「オレが!」「ワタシが!」と叫びながら、
神経症の胃痛に悩まされたり、
孤独の淵に溺れかけたり………
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文明という名の薄氷。
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水槽のエンゼル・フィッシュが卵を産んだ。たった1枚の葉の上に約300個積み上げている。
ときどき卵が葉から転げ落ちるのだが、そのたびに親がダッシュしてキャッチ、口に含んでまた葉の上にもどしている。
300個もあるのにけっして1個を捨て去ることはしない。それが命をつなぐ親の心なのだろう。数とは無縁の場所である。
300−1=299などというふとどきな算数計算はしない。聖書の「迷える子羊」の垂訓を思い出してしまう。
太古の海でオウムガイに追われながら、ときには果敢に身を挺して闘いながら、
岩陰で子どもたちの命を紡いだ親魚たちも同様だったのだろう。この親たちの祈り、命の連鎖が、
海底から河口へ、河口から川上へつながれ、陸上へとはい上がり、一度も切れることなく人、私へとつながったのだ。
なんと多くの親たちの祈り・挺身があったのか。私の体の中に無数の祈りといつくしみが詰まっていることが分かる。
私にはすべての親たちの祈りといつくしみに応える責任があるのだろう。なんという温かい責任だろう……
私は大声で、連続する母たちを貫いて太古の海の母へと叫びたい。
「かあさ〜ん! 無数の祈りといつくしみを、ありがとう! わずかで申し訳ないけど、いま、ぼく精一杯輝くからねッ! ぼくと一緒につながって、かあさんたちもキラっと輝いてください! それがせめてもの恩返しだと思うから……」
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君、大きな声で、心をこめて、
「かあさ〜ん!」と叫んでみて。
君の母、君の母の母、母の母の母、無数の列なした母たちがいっせいに君を振り返ります。
太古の海の母魚までもがやさしいまなざし、しかしちょっと心配そうなまなざしで、君を振り返ります。
嘘じゃないって!
一度やってみて。
大きな声で、心をこめて、
「かあさ〜ん!」
君もぼくも、連綿と繋がっていてひとりぼっちなんかじゃないんだ。
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母、母の母、母の母の母、母の母の母の母、母の母の母の母の母、最初の母の向こうに、神の手があるのかも・・・母は父よりももっと近く、神を見ているのかもしれない。
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母在って私、
父在って私。
太古の海からつづいているこの命。
幾度目の命だろう?
すごい!
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死線をさまよいながら、ベッドの上で老人は言いました。
「孫娘の涙こそ私の感激!」
そうだ。人生の最大の感激は自分の人生がいきいきと継続されていることの確証を手にすることだ。
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科学文明は「素」の世界に突入した観がある。おそらくは最後の「素」光子を超えたとき、人類は宇宙を支配しているイデア(理念)に出会うこともありうるような気がする。
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クローン。神の指先がチラッと見えてまた隠れた。
でも、こわい気がするねえ。
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ひとり 生き方に迷ったときは
木々に たずねるのもよいでしょう
お年寄りや友達に たずねるのもよいでしょうが
幾千万年を生きてきた
木々に たずねるのが一番でしょう
木々は こう答えるにちがいありません
「よく肥えた大地に 根を張って
こずえは 天を指して立ちなさい
それから 枝々は仲間たちに差しのべて……
枝と枝とが 心地よくふれあうことを
あたたかい楽しみとなさい
強い北風の日には 互いをかばい合って
風を弱めるのです
わたしたちは どこにでも立っています
君に 語りかけています
だけど君はいつも 機械になじんで
テレビ・ゲームの世界……
それも半分いいけど
ときには 大自然の中に出かけて
そう わたしたちの中に
生きるパターンを 読みなさい
なんてったってあなたは機械の子どもではなく
わたしたち大自然の子どもなのですから……
そう 人はみんな過去からの結果なのですから
赤ん坊が お母さんのオナカの中で
動物としての長い歴史を
一通りなぞった結果生まれて来るように
わたしたち古くから在るものを たずね
それを 踏襲しなさい
過去 それこそが揺るぎ無い真実です。
その揺るぎない基礎の上に立って初めて
新しいもの 未来へと向かいなさい
そのときにこそ 誤りがなく 揺るぎのない
新しいものがわかります
本物の新しさが見えてきます
あなたは それに向けて真っすぐ進んでいけばいい
古いものと 新しいもの
過去と未来を 断絶させてはいけません
それは正しさを失うことですし
それをつなぐのが きょうのあなたの立ち位置です。
きょうのあなたの輝く仕事です
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ヘレンケラーは言ったそうだ。「人間に絶望はない」
なるほど大自然は常に最低一つは光への窓を人に残しているらしい。それを見つけ出すのは、誠実なハート。
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愛は、全てを繕う。
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「真実」を持ち出すと「平和」が保てない。
となると、そんな土壌は非真実であるか、
又は持ち出した真実が実は非真実であるかのどちらかだ。
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私の存在自体が、過去の伝承そのものである。
進化の歴史を見ればいい。
子宮の中の赤ん坊の成長を見ればいい。
われわれは「過去」の踏襲として存在しているのだ。
「自由」「平等」「権利」のために存在しているのではない。
現代の人気イデオロギーではあっても
民主主義も偏重し過ぎると、真実が後ずさりし始める。
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宇宙の価値の代表者としての人間。
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たった一つのボールを運ぶために、サルは枝から枝へと渡るべきだ。サカナは水中を泳いで運ぶことだ。民主主義の平等なんて持ち出さないでくれ。みんなが同じ行動を強制されるとボールは運べないし、サルは溺れるし、サカナは干からびてしまう。
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「こころ」があって「輪」が生まれ、
「こころ」があって「場」が生まれます。
「場」があって新しい「芽」は萌え出でて、
「芽」は太陽に向けて伸び、
新たな光を得ようと葉を広げます。
それを<いのち>と呼んでもいいようです。
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安定を求めて人間は保険制度を設けたわけだが、それも社会の安定が前提とされてのことだ。昨今のバブル崩壊・世界大不況の中では、保険会社自体が危うい。しょせんわれわれに安住はない。
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人は〈状態〉に多く目を奪われて、とかく人間〈実体〉を忘れる。〈状態〉が運よく展開しているうちは大小さまざまな〈状態〉のボードに乗ってこの世を鼻歌まじりに波乗りジョニーよろしくすべっていくのだが、突如大波にボードをさらわれ海中に投げ出されると、たちどころに大波小波に翻弄され溺れて呼吸困難に陥る。この世は絶好の波乗り場でもあるのだが、波乗りをする者は全員、ボードがなくても自らが泳げる力を身に付けておくことが大切だろう。そのとき、個人の真価が表れる。それが「人間の力」だと言える。
うまくボードに乗れているからといって天狗にならないことだ。投げ出されるまで、あと数秒と心得るべし。
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【自殺について】
日本の自殺者数は年間約3万人に達すると言われている。理由は様々だろう。そこで私の思いを少々。
自殺しようと決定づけるのは常に「意識」である。その間にも、個の現場である肉体は「生きよう、生きるんだ!」と鼓動を打ち続け、血液は轟々と体内を駆けめぐっている。その現場も個の大きな構成部分を占めている。およそ自殺は「意識」の一方的傲慢に始まる。
自殺を決定する意識は、現場の主張に耳を貸さず机上の結論を現場に押しつけて顧みない、お粗末なワンマン上司そっくりだ。
ぼくたちの実体は、むしろ正直に機能する肉体だ。自殺はその自然破壊行為でもあるということ。
驕るな、意識!
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人はいずれかの段階を信じることなくして、人生も生活も成り立たない。
今夜、夫はあなたの首を掻き切るかもしれない。
妻があなたの首を掻き切るかもしれない。
なぜ枕を並べてあなたは眠れるのだ?
「信じる」ということ。「信じる」ということ。無数の「信じる」ことで人生は成り立っている。
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今、不況の時代は、経済とか物を信じ過ぎた人たちが対象を見失う時代でもある。
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自分を尊重することが「人権」なのではない。
他人をも同等に尊重する。
その総和として「人権」なのだ。
それが「社会性」なのだ。
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子供の権利というけれど、大人にだって権利はあるんだよ。
女性の権利というけれど、男性にだって権利はあるんだよ。
同時権利。
同等権利。
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【尊厳】ということ
男は目前の女性への尊厳を心になくしたときその女性を見失う。
女は目前の男性への尊厳を心になくしたときその男性を見失う。
それは、男女についてだけ言えることではないようだ。
生徒は先生への尊厳を心になくしたとき先生を見失い、
先生は生徒への尊厳を心になくしたとき生徒を見失う。
子は親への尊厳を心になくしたとき親を見失い、
親もまた子どもへの尊厳を心になくしたとき子どもを見失うのだ。
およそ互いのありありとした存在は尊厳の心に始まる。
相手への尊厳を捨て去ることは、自らが相手を失い、
失えば失うほどに、自らが貧しく乏しくなってゆくことに他ならない。
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時代とともに
変わらなければならないものと………
変わってはならないものと………
【変わってはならないもの三つ】
「こころ」には 「こころ」をもって応えること。
「礼」を粗末にしないこと。
精一杯「誠実」であること。
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悪貨は良貨を駆逐する≠ニいう。
いま一歩、いま一歩、粗野な性格が、他を尊重する心を押し込み押しのけ徐々に浸食し、場を広げるような蛮行は許されない。住み良い人間社会実現への逆行であるし、人権の侵害でもある。他を尊重できる人間は、「粗野を阻止する強さ」を兼ね備えなければならない。
社会を護らなければならない義務。お人好しではすまされないということだ。
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真を手放すことは、自分自身を手放すこと。
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クローン人間の可能性と倫理性が取り沙汰されている。
近い将来、富国政策のために優秀な頭脳をもったクローン人間を量産する。
強国政策のために向こう見ずなクローン兵士を量産する。
いまこの地球上を見る限り、私はそんなことはあり得ないと断言できない気持ちがする。
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「愛」に証明が必要なとき、言葉ではなく、
払われた「無償の行為」こそがバロメーターとなる。
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子どもに「好かれていよう」と思った時、もう本当の「子育て」はない。
(親はつらいねえ。でも、グッと我慢しなければ。親なんだもん。)
愛情とは甘やかせることではないんだ。
勇気を持って子どもたちに嫌われようではないか!
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若者よ、もし彼女を愛しているのなら、その愛を終わらせたくないのなら、彼女の歓心をかおうとイエス・マンにならないことだ。いま彼女はイエス・マンの君の方がわがままを通せるから歓迎するのかも知れないが、やがて彼女は目覚めて、わがままな自分にぞっこんで、たしなめることも、リードすることもできなかった君を物足りなく思うときがやってくる。その瞬間から彼女の君への敬意は減退し、愛はフェイドアウトしはじめる。というのも、愛は敬意の裏付けなくしては持続できないからだ。ことに女性の男性への愛はなおさらだ。こうしてやがて愛は終わるかもしれない。
君は混乱した心の中で叫ぶにちがいない。「どうしてだ!? あんなに彼女の好きにさせてやったのに! 一度も叱ったこともなかったのに!」 それが原因だったということに気づかないまま…………悶々とした日々を過ごす。
だって、真面目な彼女なら、愛する君の手で自分を向上させてほしいって思うだろう。自分の欠点の一つでもいい、二つでもいい、除いてほしいって願うだろう。
それとも、死ぬまでわがままを通していさえすればご機嫌な彼女だったら、彼女とは君の方から早急に別れるのがいいと思うよ。
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大切なこと、
人生を楽しむこと。
しかしそれには様々な種類があり、
レベルがある。
なるべく高くを飛ぶことを知るがいい。
広く鳥瞰できてより楽しい。
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よかったね、打ち込めるものが見つかって。
よかったね、飛び込む対象が見つかって。
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死の裏返しとして
いま、地上に生きています。
◯
△
□
なんでもいい。
いま、あなたが燃えている《ファイティング・リング》何ですか?
たった一つは人生に君の《ファイティング・リング》を持とう。
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【遺言】(変わってはならないこと)
取って譲れないものを3つ持ちなさい。
一つは〈愛情〉
一つは〈仕事〉
もう一つは〈礼〉
それを守るために、譲れるものは笑顔でどんどん譲りましょう。
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床の上に音符をいくつばらまいても、感動はない。一つ一つの音符は無機質である。しかしド≠フオタマジャクシはド=Aレ≠フオタマジャクシはレ=Aミ≠フオタマジャクシはミ≠フ位置と個性を堅持して有機体を形成したとき名曲が生まれる。「平等」の掛け声のもと、オタマジャクシが全員横並びに並んだとしたら、音楽は聞こえない。死のような静寂だ。
動物の体の70%以上が水分だという。しかし他の要素とからんで有機体を構成したとき生命が生まれる。
有機性こそ生命! 有機性こそ輝き! 有機性こそ感動!
(注)ド≠フオタマジャクシ、レ≠フオタマジャクシ、ミ≠フオタマジャクシの間に担当位置の高低差はあっても、差別ではない。
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差別と区別は異なります。
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ピッチャーはピッチャー、キャッチャーはキャッチャーをしっかり実行すること。
ライトだってしっかり守れば、キラキラ輝くんだ。イチローの守備をごらん。
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人間にとって、感動に結びつくことのない論理は自然性を離れていて偽物であることが多い。
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夫婦も2人が小さな有機体となったとき、1つのハーモニーを醸し、輝きはじめる。新しいいのち≠得る。
夫婦は〈1人の男〉+〈1人の女〉ではないのだ。
むしろ、〈1人の男〉×〈1人の女〉の方が近いように思える。
結婚とは+を×に変えること。
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子どもらの 声なき声を 聞ける耳
「立派な標語だねえ。
でも、声に出したって聞いてもらえないんだよ」
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デジタルはアナログに取って替わり、デジタルの収れんするところは、またアナログなのかもしれない。
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右足の次に、左右どちらの足を出すのが正しかったのかと意識したばっかりにつまずく人もある。
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彼が転んだからといって、嘲るのはやめなさい。立ち上がって前へ進もうとしたから転ぶんです。
座して、前進を試みることもなければ転ぶこともありません。座したままの者達が彼を嘲るとしたら、彼らこそが嘲られるべきです。
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少し大きい目のこと。
「宗教」は人のあるべき完成の姿を指し示し、「資本主義」は動物進化の現地、エゴイズムに支えられた人を現出している。
エゴイズムを離れたイスラム宗教心と、エゴイズムを基本に据えたアメリカ資本主義の落差・相克の主因はこの辺にあるように思える。
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【技術革新時代に於けるオモシロイ新説】
芸術は「美の真実」を通じての神への切迫である。
宗教は「信仰の真実」を通じての神への切迫である。
技術は「物理の真実」を通じての神への切迫である。
芸術も宗教も技術も
ただ一つ「神への切迫」の多面に過ぎない、と思えてきた。
神への切迫を「道徳」だとするなら、
道徳とは無縁と思われて来た技術に係わることも「道徳」であり、
ときとして使用方法をたがうことを除けば
技術に携わることは道徳的活動だとも言えるのではないか。
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芸術は感動!
技術も感動!
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「そっとこのままのバランスの世界にしておいてほしい」
そう願うのは分け前を多い目に取り過ぎている人達なのかも知れない。
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既成の民主主義に固執しない「自由」な発想を!
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恵まれて生きて、気づけないことの多過ぎて………
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『結婚について』
若い男達、女達は、つねに審査を受け、又、審査している。
一人の女性の全人格的審査員が男達である。
一人の男性の全人格的審査員が女達である。
この女の子孫は、この男の子孫は
人類の未来への継続に値すると大きな知恵で判断したとき、
男は女と、女は男と一対となりたいと念じ始めるのだろう。
だから、結婚式が〈めでたい〉というのは、
未来人類への継続資格を得た〈合格の祝典〉であるからだという見方ができる。
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そもそもデジタルというのは便利ではあるが、ツブツブで気持ちが悪い。
とはいうものの、それも進化すると細かくなって、気持ちいい。
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われわれの宇宙は、たまたまこの物理法則によって存在するものだ。
まったく別の法則による宇宙があっても構わない。
というより、われわれの宇宙の法則こそが希な、不思議な法則なのだろう。
神は無数のルールをポケットに忍ばせて、取り出そうとはしない。
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もとの場所にもどるということは、けっしてムダなことではない。
というのも、往復する間に様々な発見をポケットに詰め込んで元の位置に立つのだから。
彼は昔の彼ではない≠ニいうことだ。
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【女性の社会参加】という言葉について
個の集合体が社会である。よって家庭もまた社会の一部である。
【女性の社会参加】という改まった言葉には、首をかしげてしまう。
歴史上いつの時代にも男女は家庭内社会であれ家庭外社会であれ、男女共生し営々と社会を築いてきたのだ。
過去に女性が社会参加をしなかった時代があったなどと考えるのは、現代人達の近視眼的傲慢な思い込みに違いない。
常に個は社会に組み込まれて生きているのだ。
女性が社会に参加しなかった時代など一度もなかったし、またありようもない。
もし社会の中での守備するポジションを言うのであれば、
家庭内社会であれ、家庭外社会であれ、「適材適所」又は「時の事情」ということにつきる。
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家庭も社会であるということをとかく忘れて語られる現在の社会観の中では、家庭は語りの中から取りこぼされてしまう危険性をはらんでいる。
いま家庭も社会なのだという視角を取り返さなければ家庭内社会が希薄化してしまうわけだが、この間違いに時代が気づくのにそんなに時間はかからないだろう。というのも、あまりにも単純なミスだからだ。しかし例え短い期間ではあっても、家庭的であることは価値が低いこと、希薄なことと思い込み、人生を取り違えて生きる犠牲者たちが出てしまうことは取り返しようのない残念なことではある。
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時代思潮というのは流行グッズのように意外にいい加減で、あまり深く信奉していると捨て場にさえ困る物である。市役所のゴミ収集車も回収してくれない。
私も過去幾度かそれを経験させられてしまった! 近代日本における最たるそれはなんといっても昭和20年8月15日真夜中の敗戦の夜のわが国「神の国・軍国主義」思潮から「アメリカ民主主義」思潮への変貌である。第2位は「社会主義社会理想論」とその崩壊ではないか。
私は廃れないものを収集したいと願っているのだ。そして、収集し切れないうちに人生が終わってしまいそうに思える。
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例えば一人の女性がその主な生活の場を家庭内社会から家庭外社会へ移行させようが、また、その逆であろうがさしたる出来事ではない。しょせんは移行に過ぎない。要は彼女自身と周囲のより多くのしあわせが選択されていればそれでよいということだ。
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提供したものの数を帳面に書きとどめるのが、家庭外社会。
提供したものの数を帳面に書きとどめないのが、家庭内社会。
提供したものに代償を求めるのが、家庭外社会。
提供したものに代償を求めないのが、家庭内社会。
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男も女も、一日は24時間だし一般的には不器用な存在だから、その社会性において家庭外に力を注ぐと家庭内がおろそかになるし、家庭内に力を注ぐと家庭外がおろそかになる。どちらがすばらしいとか、尊いとか言えるものではないのであるが、私は幼い子どもが、今はの際には「おかあさん!」と泣き叫ぶのを聞いて、もっぱら家庭外社会に場を持つ者が、貧乏クジを引かされている気がしてならないのは事実だ。
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人が、しあわせになるために、こんなに地球を汚し、こんなに多くの物質が必要だったのかはなはだ疑問である。過去、私たちが携わってきた物質大量生産の仕事とそれに向けて流された汗と人生は何パーセントが有効だったのか、考えさせられてしまう。
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今、家庭外社会の物質生産中心の仕事より、家庭内社会の情緒的仕事の方が必要を迫られているのではないでしょうか。
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文化は、歴史の知恵である。
文化は、人々がそこに至るまでの生活の結論である。
その意味で「文化」と「大自然」は大変似通っているし、「人」とも似ている。
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ある小学校の学芸会で演目に「浦島太郎」を選んだところ、浦島太郎と乙姫様になりたい者ばかりでタイやヒラメのなり手がない。困った先生は、日本の「平等」の原則に基づいて全員に浦島太郎と乙姫を演じさせることにした。しかし、クラスの男子生徒20人分20回同じ「浦島太郎」を演じ続けるのも時間のかかることだし、先生は1回に5人ずつ浦島と乙姫を並べて、計4回「浦島太郎」を演じさせたという。それでもなお同じ出し物を4回観ることを余儀なくされた父兄の一人は、いいとこ2回、10人の浦島太郎と乙姫が限界だったと言う。あとはもうどうでもよく、ますます話が混乱するばかりだったとか。大変だ! 日本の条文化された「平等」は!
自分が目立つことより、クラスみんなで気持ちを合わせて一つの目的を達成することの大切さ、そして輝くのは浦島と乙姫だけではなく、タイもヒラメもサンゴもコンブもそれぞれの持ち場≠見事に果たしたとき、みんなが一緒に輝くのだということを教える絶好のチャンスであったと思うのだが………
ポジションを見事に果たすことの輝き!……これこそが、社会性というものだ!
野の花は大輪の花もいのち限りに咲いて輝く。小輪の花もいのち限りに咲いて輝くのだ。野は大輪の花だけを尊しとはしない。それぞれに輝いていて野は美しい。
胸張って優れたヒラメになろう。胸張って見事なコンブを果たそう。
社会の一角を背負い続けよう。誰も取って替われる者がいないほどにサンゴを実行しよう。
…それが社会的個性というものだ。
肩書きに「長」の字がついているかどうかではなく、「収入」の額によるのではなく、そういう人をこそ尊敬できる思潮をみんで育てようではないか。
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学校教育の原点は、子どものしあわせ。「自由」「平等」「権利」「ゆとり」「未来」「民主主義」どれでもないよ。
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人生は惰性で生きるのはよくないね。
せめて半分は覚睡して生きた方がいい。
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最大の知恵とは、法律とか物理に長けることではない。
神・仏の意志に長けることである。大自然の理念に長けることである。
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権利書に書かれたこの土地は私のものではない。大自然よりの借地である。
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x軸を地(物質)の豊かさの軸、
y軸を幸せの軸とすると、
地に恵まれて、幸せになるという健康的、または温室型第1象限
地に恵まれず、かえって幸せへのエネルギーを獲得していくパワフル第2象限
地に恵まれず、よって不幸に墜ちる単純且つ物理的第3象限
地に恵まれて、よって不幸に墜ちるという温室で脱水症状に陥る花
又はミルク桶にはまって溺死するネコのたぐいの第4象限
あなたはどの象限に属するのでしょう?

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ねえ、ねえ、ねえ、起きてごらん。
面白いこと、いっぱいあるね。
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君って、自分のこと好きかなあ?
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NHKはニッポン丸の舵、と信じたい。
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われわれにとって何が正しいかといって、
資本主義でもなければ社会主義でもありません。
人類が未来へと継続されていくことが正しいと思うのです。
少女の胸の二つのふくらみをごらんなさい。
大自然のイデアの意向をことばに替えて、
矢印のように未来を指して立っているのがはっきりと見えます。
その先に何があるのか?
いま、わたしには見えません。
それでもわたしは、あの少女たちの胸をこそ
何にもまして信じます。
何が正しいかといって、
一切のイデオロギーが命じるところとは関係なく
子供を産む女性は正しいのです。
それを育てる女性は正しいのです。
そして、美しいと思います。
人間を、
その命を未来へと繋ぎます。
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大自然は、神の言葉。
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■あとがき■
あれこれ書いてまいりましたが、
一つでもあなたの心のなかに記
録されるものがあれば幸いです。
最後までお読み頂きありがとう
ございました。インターネットとい
う社会資産があればこその一期
一会かと思い、よき時に生きるこ
とができうれしく思います。
木村長世
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=全94編=
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