【序章】

ことばを限界とし、
ことばを捨てない。

<信>なくば<憂い>ばかり。

書いた人の名前を問うのではなく、
書かれたものの中身を問う。

野の花は評価を必要としない。
ひたむきに咲き、とき終われば散る。
野があればそれでいい。
褒め言葉もいらなく、注釈もいらない。
終わって人々の涙をさそうことさえなく、
今を咲く。
咲くから、咲く。
私もそれでいい。

平成7年1月17日未明
「地球の終わりか」と思わせた阪神淡路大震災
…………………………
当方家屋の破損及び水道管の破裂による商品の水ぬれ被害
仕掛品キャンセル並びに経済活動の停滞による損失計約630万円
…………………………
この大震災による死者6432名
死者の冥福と
死は隣に待機していることの自覚
生かされたことの不思議とその責任

<死>と隣り合わせになった経験のない者に<生>は分からない。
神は地上を平等には造っていない。

多くに護られて自分なのに、勘違いして「自分の力」だと思い込んでいる。

その力でもって
1億5000万年もの間
地球上を制覇した恐竜たち。
ある日天球の1個が地球に衝突した。
その破片と砂ぼこりが全地球を覆ったのだという。
陽は遮られ植物は枯渇し
地球は寒冷の地となり
大型恐竜たちの蛮力は無意味なものとなって
ほぼ全滅をしたのだという。
*
生きるも神の懐の中。
死ぬるも神の懐の中。
二つの道の重なるところ、
「私の道」を得たいもの。
そうか、それなら
水の流れに身をゆだね、
水になれ、透明な水になれ。
水になれ、燃え上がる水になれ。

「いただきまーす」
食事を用意してくれた人への食べ始めの合図ではない。
一皿の上のチリメンジャコの目を見つめると、
自分の命を支えるために
なんと多くの命を犠牲にしてきたかが伝わってくる。
その命への感謝と集約者としての責任を宣言する言葉が
「いただきます」なのだ。
幾万の命の集約…「自分」
私が輝くことで、はじめて幾万の命も輝けるのだろう。

「死」を寵(かこ)わず生きることの過ち。
「生」を寵(かこ)わず死ぬることの過ち。

経済的に恵まれた者
健康に恵まれた者
親に恵まれた者
子に恵まれた者
伴侶に恵まれた者
知に
才に
心に恵まれた者
友に恵まれた者
指導者に恵まれた者
いのちに恵まれた者
あなた と わたし

蝶も
花も
月も
石も
私も
水も
鳥も
虫も
等しく宇宙の一部変形
蝶が蝶を果たして終わるように
鳥が鳥を果たして終わるように
私は私を果たして終われば真実

私にとって「最も大切」なこと
……「私を果たす」

完全は 神が支配するところ。
不完全は 人間が漂うところ。
【本章】

いわき山の うえの木も
いわき山の すその木も
どちらも 木でございました
大きいのも 小さいのも
根を張って キラキラと
天を指して 光っておりました

みょうじん池は、黙して谷より水をうけ、みょうじん池は、黙して田に水をあたえる。恩にきることも
なければ、恩にきせることもない。みょうじん池は、名もまずしくよどんでたたずみ、よどみのふかさ
をかなしむこともない。みょうじん池は、ちいさな茂みをふところに、きらきら光りもするが、わずか1
ぴきトンボなどあそばせて、おのれをだれに語りつげもしないで、千年昼夜をよこたわる。

にわの桃の木よ、
花を急ぐな。
桃は桃のいのちをたくわえると、
光と風が花の時をはこんでくる。
桃よ
そんな花こそが、
まことな花であることを、
いましずかに知れよ。
だから桃、
ひとびとがお祭ににぎわっているときに、
みずからのいのちを掘ることだ
ショッ! ショッ!
体内に鍬の音を響かせてよ。

ひとは 沼のなかのあぶく
沼の一部であって 沼ではない
けものたちより
えたいの知れない元素をひとつ余分に背負って
浮上する束の間がいのち
浮上して
ある日 あぶくはわれて
くうきにとける
ひとは終わって 終わらない

ひとは、ふしぎにも二つの「米」の姿でございます。
ひとつは、茶わんに盛られた飯の姿でございます。一粒一粒が個をかたどっておりまして、「我」の形相でございます。
いまひとつは餅米がつきあげられた餅でして、もう、だれかれの区別もございません。ただひとつ
べったりと餅でありまして、であればこそ、親に繋がり子に繋がり孫に繋がり、
他人の子の死になみだ浮かぶこともあるのでございましょう。ふしぎ、ふしぎなひとの姿ではございます。
とはいえ、ともすれば粒の姿が目につくひとの世、もっと餅の姿を、と望みたくなる様相でございま
す。確かにそれが、やさしさ、ではありましょう。が、飯の姿も見事なひとの立ち姿、その孤独まつ
わる緊張には、深く頭の下がる思いもわいてくるのでございます。

せ・せ・石油ばかりが貴重なのではござらん 産油国ばかりなんでござる
ひ・ひ・ひとは水もってござる
ひ・ひ・火うち石うって火つけると ぼうぼう燃えつづける水でござる
黒くべたつく石油より澄んで透明
だから じょ・じょ・じょ・じょ・じょ・じょ とこころを洗う水でもござる
掘れば 掘りくだればしんしんわきあがり
かぎりなく燃え上がる水でもござる
石打って石燃える
石仏打って仏さま燃える
水打って水は燃え
目的もなくほのお燃え立ち
ひとでござる
ひとでござる

『ツル』
あの日 ぼくたちの田には
ツルが舞いおりたものだった
ミミズをたべていても 胸張って
寒風に尾がさわさわと鳴って
ツルだった
あの日のツルはどこへきえたのか?
おろかなりょうしが鉄砲でうって
忘年会の宴席で
猥談のオカズにして食ってしまったとか
「いくら儲けた」
「ツル食べた」
「誤魔化しいくつ」
「ツル食べた」
「恫喝どんだけ」
「ツル食べた」
田には
小山が出来上がって
廃材
汚泥
産廃
古タイヤ……

暑い午後だった。西日の入る四畳半一間の文化住宅は室温が40度を超えた。しょせん貧乏学生だったぼくの部屋にはエアコンもなく、暑さに追い出されるように、掃き出されるように、ぼくは外に出た。街は、自動車の排気ガスとアスファルトの照り返しで暑い。ぼくの足は自然と山の方角へと向かった。
木漏れ日の山道を歩くうちに、古びた山門の前にぼくは立った。初めて見る山門で、門から奥へと続く敷石の道は木々の豊かな青葉に覆われて、その奥が伺えない。青葉の奥から蝉時雨が降り続けた。
と、そのとき、青葉の奥からひとりの尼僧が近づいて来るのが見えた。ぼくを見つけて近づいて来たようだ。視線がぼくを見つめたままなのがわかる。とっさに臆病に人生を生きているぼくは、『逃げようか』と思った。しかし、盗みをはたらいたわけでもなく、逃げる理由もない。ぼくは、尼僧が近づくのを身を固くして待った。
「お暑うございますね」
透明な声が聞こえた。その声はこの女のひとが美しく、しかもこころの美人であることを予感させた。ぼくの胸は突然ときめき始めた。
「あ、暑いです」ぼくはあわててこたえた。
僧衣に覆われてはいるが、中肉中背、色白く、常にほほえみが絶えない若い尼僧だった。
「もしおよろしければ」と、尼僧が言う。「お茶でもいかがでしょう? 暑いときには熱いお茶がかえって涼を呼んでくれますので…」
初対面で、お茶をよばれるのは厚かましくもあるように思えたが、ぼくの胸のときめきが答えてしまっていた。
「ありがとうございます。いただきます」
「お受けいただいてありがとうございます。どうぞこちらへ」
尼僧に案内されるままにぼくは敷石の道を奥へと進んだ。途中、木々の幹に枝に油蝉の姿が数多く見受けられた。蝉時雨の張本人たちだ。
「この子は、太郎っていいますの」白い指で幹にとまった一匹を指してほほえみながら尼僧が言う。
「この子は、瑠璃っていいます」
「ああ、この子は健次郎、久しぶりだわ。健次郎、どこへ行ってたの?」
驚いた。油蝉一匹一匹に名が付いていて見分けがつくのだ。
驚くぼくを見て尼僧は言った。
「蝉にも色艶、顔だち、目つき、スタイル、それぞれに個性がございまして、だからこそ愛らしいと申しましょうか…いとおしいと申しましょうか…大切なのはひたすらに見る目でございましょうか」
「あ、健次郎、あまり遠くへ飛ばないでちょうだいね」と、尼僧は大声に呼びかけた。
健次郎は答えた。
「どうせぼく、あなたの前でしか死なないから!」
ぼくは「まだ奥に入るのですか?」と尋ねた。もうかれこれ20分は歩いたに違いない。お茶一杯よばれるには遠すぎるように思われた。
ぼくはやがて奥の院の縁側に腰をおろした。白い尼僧が笑みをうかべながらお盆に湯呑みを載せて運んで来た。
「お茶とは申しましても、ここでは透明な白湯のことなのでございますよ。色即是空、0原点の世界でごいますから」と言う。
この白い女に対するぼくのときめきは、女の体に触れたいというときめきではなく、眺めていたい、話していたい、思いをめぐらせていたい、次の言葉を聴きたい、というときめきであった。
「もう一つ奥の部屋をごらんに入れましょうか?」と若い尼僧が言う。
めずらしい経験だし、毒食わば皿まで、といった気持ちも手伝って、
「お願いします」と答えてしまった。この一言が、ぼくの人生を、それまでの人生観らしいものを変えてしまうなどとは知る由もなかったのだ。
「どうぞこちらへ」と、案内されるままに、ぼくは白い尼僧に従った。
やがて彼女はとある部屋にたどり着き、障子を開いた。
薄暗い部屋の畳の上一面に、るいるいと約百体の遺体が並んでいる。正確に数えると百十体ある。それぞれの遺体の顔には白い薄布がかぶせられてあり、枕元には一人に一冊ずつ、過去帳が置かれてあるのだ。
「それぞれの御遺体にかかわる生前の特筆すべき事柄が記録されているのでございます。ことに内面につきまして……」という。
ぼくの好奇心がもくもくと頭をもたげた。
「ちょっと帳面を拝見させてもらっていいでしょうか?」 恐る恐るぼくは尋ねた。どうしてだろう。また毒食わば皿までだ。
「どうぞ、どうぞ。ここではいっさいが自由でございます」という。
「すべてが晴れ晴れと解放されておりまして……」
ぼくは急いで手近な一冊を開いて見た。
しかし、どの頁を開いて見てもまっ白けなのだ。隣の遺体の過去帳をめくってみた。しかし、これもまっ白け。次の一冊も…、次の一冊も………
「何も記されていませんが、一体どういうことなんです!」ぼくは、叫んだ。
「どなたも、特筆することがなかったのでございましょう。朝起きて、歯を磨き顔を洗って、ご飯をお召し上がりになりまして、便所に行って糞尿を落とされた。きのうと同じ利己心を引きずったまま巷をさすらい……とにもかくにも物理的にこれの繰り返しばかりで、人として特筆することが見あたらなかったのでございますよ。大自然に帰する≪存在≫の意味はあるとしましても、個人の人格に帰する不可視の価値はうかがえません!」おだやかな尼僧は厳しく冷たく言い放った。「ひとの価値には二種類ございましてね、一つは犬猫とも同列の、大自然に帰結する有機体としての存在の価値。いま一つが人間個人に帰結する個の意識と行動の燃え上がる価値……」
「母さん!」とぼくは咄嗟に叫んだ。「ぼくはとんでもない場所に産み落とされていたんですね!」
「今日はことさらにお暑うございます。さあ、何どきまでご遺体がもちますか。夜の八時頃には腐敗がはじまりましょうか」
「ちょっと待って下さい!」ぼくはさけんだ。あわてて次から次へと過去帳をめくっていった。しかし、どの帳面もやはりまっ白なのだ。
そうして、38人目と77人目の過去帳に、なんとか黒々と大書された筆文字をみつけたのだ。
"この命 人として燃えた 尽きた 享年37歳"
"この命 人として愛した 掘った 享年64歳"
ただ、この二人だけだったのだ。
尼僧は別れ際に言った。
「目覚めて生きた者だけが、最後に真実眠れるように思えましてね……」

『女』
女 走る 野をわたる南風
女 ほほえむ ランの花びら
女 ひとり 涙をたべる
女 旅する 一羽のカモメ
女 母となり 奇跡の枝葉を現し
女 慈悲深く 観音様の姿
女 八十 誇りある晩秋のささぐれ蝶
女 死んで 悔いもなく土へともどる

『念仏を軸に回転するコマの立ち姿』
ひとは 血肉の底から念仏を唱えつづけて在る
だから 朝には起きあがり 町にも出る 前へと歩こうとする
ひと先争って駆け 金にまなこを血走らせもする 生まれ出てきたことさえ
三億の同胞精子を忍び抜く念仏の突き上げだろう無節操≠ゥも知れない
しかしひとはこころに念仏を唱えて「おのれかわいい
わが子かわいい」などという生存へのひたむきな念仏よ 輝き
子をみつめ孫をのぞんで 未来人類への念仏 陽が燃え
星星がきらめき 獣どもが鳴く訴念のように ひとも念じ念じてよ
その果てにつかれたらいこえばいい終われば眠ることだ
しかし陽はまだ中空に在って 血液の中の炎はぼうぼうと燃えつづけて在る
だから念仏たちのドラマに ひとも町も炎となってキレキレダンスを踊ればいいのだ
踊りのさなか 女は顔をおおって泣くかも 男は立ち止まってうなだれるかも
ぜんぶぜんぶ念仏の屈曲だ
念仏を唱えて唱えて唱えて目的地に向かうのであれさすらうのであれ
ひとは列なして念仏を唱え唱えてよ ひたすらにひたむきに行く行者の姿 合掌

老いても、命ある限り灰になるな。

蛇もいれば、蝶もいる。それでいい。

はばからず 宴響かせ
都会に色と形の紙吹雪舞う
たからかに 鉄塔をこね上げ
たからかに 高層へのトライング
はばからず エンジン音響かせ
はばからず 恋求め合い肉求め合い
たからかに 欲望をこそ歌い上げ
たからかに 市場にセリのダミ声飛び交う
テレビ画面には口角泡の我田引水論議は延々続き
娘たちは短いスカートで尻のすそまで肉をさらし
ポスターの裸女はひとびとの頭上高くに立ち上がって
足下にはじらいを粉砕!
青白い理念の手が
この宴の中に差しのべられると
火傷する 蒸発する
人間よ宴よ
その行為に眉をひそめる尺度の
短い30センチ物差しは巷にあり余っているが
人間よ宴よ
ぼくたちの母は太陽だ
だから その子にふさわしく
噴火山の火勢となって
渦の形でもえ上がれ!もえ上がれ!
命は もえて命
ぼくは太陽のことを確信している!
それからね
肉と物より
心と魂の燃焼により
命が獣を超えてより深く命となることへと
宴がせり上がり拡がってゆくことをも
ぼくは太陽を信じる心の延長線上で
信じたいと思っている
ピーヒョロ タンタン
ピーヒョロ タンタン
宴にはお囃子のあるのがいいだろう
ギラギラともえる太陽の下で
ぼくだってギラギラともえながら
せいいっぱいお囃子の鼓を打とう
【終章】

<葬儀>
ばあたん
白い箱のなか
菊の花にうまってねむる
ばあたん
ひとびとは
「意地悪ばばさん」というけれど
ばあたん
あなたはここに生きて
三人の子を産んだ
そして二人をずずっと育てて
そのうちのひとりがまた子を産んだ
五人の子を産んだ
すると
子の子の面倒までみてばあたん
白い箱に入る少しまえまで
あなたは地上のためによく働いたね
「意地悪ばばさん」と呼ばれても
あなたは八十八年の地上のおつとめをすっかり果たし終えて
いま われわれを去って逝く
ばあたんよ
四時間半ののちには
あなたは火葬場の煙突から
わずかの煤煙と水蒸気へともどって
明石市の空へ舞い上がり
やがて 野や山
生きとし生けるものたちの上に降りそそぐ
にんげんたちはその水で
めしでも炊いて食うのだろう
ばあたん
あなたはこうして再びめぐる
あなたも私もときおり葉かげにおりる
小さな露の子なのでしょうか

恵まれることのしあわせ、恵まれないことのしあわせ。
プラスも数字、マイナスも数字。

勝ちは勝ち。
負けはもっと勝ち。
成功は成功。
失敗はもっと成功。
人にはその「力」。

この人生 地上を渡る一陣のかぜ 墓場はそぐわない

体は器。

名画は「大きさ」で決まるのではない。

花は咲けばいい。
名前など あるもよし。
ないもよし。

野の草は 背丈を競い合わない。
与えられた大地と水と太陽の光量のままに
己を生きる。
野の花が 大輪を競い合ったことはない。
大きくもよし 小さくもよし
紅もよし 青もよし 黄 白もよし、
己の輪を命限りに輝かせて………野の音に散る。

〔七色幻夢・成就〕
土より生まれた者
土へと還る
なにをかいわん。

生まれるは めでたく
生きてあるも めでたく
老いて衰えるも めでたく
死ぬも 又めでたく。

【最後に残す言葉】
時計の0時1分を0時00分に合わすには、左回りなら簡単だが、右回りなら大変な手間と時間がかかる。
世の≪聖典≫と言われるものの多くは、左回りに針を合わせようとしたものであり、
およそこの世の人間の頭脳と営みは、右回りに0時01分から右回りに12時00分を時間をかけて求め続づけているのだと思う。
そこに喜びや悲しみや、悲劇・喜劇、その他諸々のドラマや価値も生じるわけだ。
私は死んだら、可能なら神に尋ねてみたい。
「神様、このドラマは面白いですか?」
神はこう答えるのではないかと思う。
「悲しい…」

■あとがき■
あれこれ書いてまいりましたが、
一つでもあなたの心のなかに記
録されるものがあれば幸いです。
最後までお読み頂きありがとう
ございました。インターネットとい
う社会資産があればこその一期
一会かと思い、よき時に生きるこ
とができうれしく思います。
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