この前にここを訪れたのは、息子が小学校低学年の時だったと思う。およそ二十年も前のことだ。秋の一日京都嵯峨野を訪れた。静かな竹林の風景をカメラに収めたいと思い立った私のわがままによる。
桂川に遊ぶ水鳥たち、観光客と土産物店のにぎわい、休日だというのに案外少ない観光バス、いずれも前回訪れたときと変わらない。ただ一つ変わったと思えたのは、観光客を乗せて走る人力車の数が増えたことだろうか。
渡月橋のたもとで、一人の日焼けした精悍な若者が近づいてきて、「人力車に乗って行かれませんか」と誘う。好きなところに留まり、自由勝手に竹林をカメラに収めたいというのが私の願いであったし、若者が汗を流し息を切らせながら曳く人力車の後ろ高くに座って、あたりを睥睨しながら観光するというのも私の性分にそぐわないものに思えて、「歩きますから…」と、断った。きっと後ろに座ろうものなら、青年車夫の生活状態のことやら、本業のことやら、楽が身に付いてしまった多くの日本の青年たちが、なぜこのように重労働とも思える仕事に働いているのかなど考え込んでしまい、やがて竹林どころではなくなるのではないかという悪い予感がしたせいもある。
京の今日、考え込んではならないのだ。桂川の水の流れのように、嵯峨野を渡る一陣の風のように、こだわりのない時を送りたいと願っているのだ。近づいてきた車夫の若者も、嵯峨野の風にふさわしくこだわりなく去っていってくれた。確かに都会とはちがう。誘いがさわやかだった。ありがたかった。
嵐山渡月橋から美空ひばり記念館、世界遺産にも登録されているらしい天竜寺の前を素通りして、念仏寺に至る道のりを曲がり、折れ、歩いた。途中、古代織・西陣織等の織物屋を覗き、香の匂い漂う陶器店で絵付けに見入った。竹林の撮影ポイントを探しながら坂道をゆっくりと上っていった。
意外だったのは、細道を上る私を「恐れ入ります!」「すみせん!」と声掛けして追い越していく人力車の数々である。どの車も大の大人を二人乗せて駆け上っていくのだ。人力車の車体重量は70キロだという。大人二人で100キロだとすると、合計170キロにもなる。それが軽々と坂道を駆け上がっていくのだ。わが身一つを支えるのが精一杯の私には、車夫の若者の体力は、まるで底知れぬ深淵を覗くようにさえ思えた。そうしてもう一つ驚かされたのは、この若者たちの礼儀作法の徹底である。「礼儀作法」‥‥いまでは危篤状態とも思える日本の美が、ここでははつらつと呼吸し生きているのだ。きっと元締めが存在するにちがいない、私はそう思った。彼は信念の人か何かで、厳しく、暖かく彼らを指導しているのだろう。私の目に、深夜都会のコンビニの前でたむろする、指導者を失った青白い若者たちの姿が、悲しく浮かんでは消えた。
高い角度で竹林にカメラを向けた。嵯峨野を渡る風が竹を揺すって、私にシャッターを切らせない。「都会者が、突如の思いつきで何をしに来たのだ! われわれの長い歴史と深い心を知っての上のことか!」風と竹が私を見下ろし、睨み付けているように思えた。「よし、分かった。しかし、私にもあなた方嵯峨野の自然と同じ波長の心は残されているはずだ。だから今日、2時間余をかけてここに来たのだ」 どよどよと通り過ぎていく観光客を捨て、石垣に背をもたせて風が静まるのを待った。
しばらくして………、
「今だ!」私は“バシャッ!”とアナログ・カメラのシャッターを切った。「もうあの都会者は性急に立ち去っただろう」風と竹はそう思ったにちがいない。「おっとどっこい、だから言っただろう。あなた方と波長の合う心を残しているんだって」 「しまった!」風と竹の叫び声が聞こえた。大自然も油断をすることがあるらしい。
念仏寺の少し手前で、ニシンそばを賞味し、壁掛用の布を一枚購入する。布は九百円である。店主と思える落ち着いた初老の紳士が温かく丁重に応対して、使い方とお礼を述べて下さった。「どうぞごゆっくりと‥‥ お気をつけて‥‥」 きっと九百円の百倍、九万円の敷物を買ったとしても同様の扱いではなかったのか。一期一会の心、時同じくしてここ(地上)に生き合わせた人と人の束の間の出会い。それをこよなく敬う日本の心は、金額や数字とは無縁のものである。衆生これ仏、店主も私もきっとそうであるにちがいない。私も胸の中で合掌をする思いを残して店を出た。
人が肉体を持つ限り日常に生業を欠かせることはできない。しかし、人が二つのまなこを持つように、もう一方に忘れてはならない貴重な理念の世界がある。両眼あって人は人としての正しい視点が定まるのだ。いま少し掘り下げて言えば、ここでの商いは一つの宇宙観の中での商いと言っていいだろう。客を利潤として扱うのではない。両眼の焦点を合わせ、決してむさぼるのではない。物に流され、際限のないエゴイズムをマニュアル化された笑顔でとり繕うのでもない。己の存在を誤魔化しの世界の中に放置するのではなく、いま地上に漂う命同士として互いを抱き合うことの商いなのだ。それでこそ正しい。
ここ化野・嵯峨野では有情(うじょう)と無情が抱き合い、一つとなり、人々までもが山や竹、風や花、光や蝶、それら自然の一部となって名勝を象っている。店々を守る人たちも、あの力技車夫の若者も、野辺に咲くコスモスの花のように不思議に気品を保って心やさしい。それは、欧米化された利己中心的な都会生活の中で、私がともすれば断絶させてしまいそうな誇ってよい日本の美である。今にもフェイドアウトしそうな、心ぼそい、しかし、真(まこと)な日本の美である。宇宙である。
人は大自然の子ども。それへの傲慢や裏切りは許されないはずだ。
青年車夫をも含めて、嵯峨野の店頭では誘いが二度繰り返されることはなかった。
念仏寺を参拝するまでもなく、参道の両側に立ち並ぶ店々も、そこに商う人々も、物象の一つ一つが仏を宿して石仏を象っているように見えた。みんなが石仏のこころにつながって一つとなり、その気概の上に観光地・名勝嵯峨野を守ろうとしているのが伝わってくる。人は人を失っては、すべて空しい。
今後は二十年後といわず年に一度はこの地を訪れよう。それまで私もここに合致する心の波長を確保して、この真な風景の一部に再び溶け込ませてもらいたいと願いつつ、夕闇迫る京を後にした。
●
日本人の多くは、京都に出会うと胸の不条理を癒される。裏を返せば、癒されない不条理を抱えて日々を生きているということでもある。私たちの胸の不条理とは何なのか? 物への過剰な執着による不自然な心の空白のことか。その刺を抜き去ることはできないのだろうか?
日本人の多くは、京都に出会うと胸の不条理を癒される。京都に漂う精神性に私たち日本人の心の琴線が触れて共鳴するからだろう。この共鳴こそ、私たちが日本人であることの証なのだ。民族性と文化の基礎なのだ。そしてこの民族性と文化は主に「仏教」と茶道等多くの「道」を通して壮大な宇宙観・形而上学的世界へと広がる。そこでは、外国人をも魅了し、説得してしまう力をも有している。
とかく<法>を己の外に待つ西洋文化諸国とは異なり、本来の日本は個人の主体性の中に厳しく<法>及び<法力>を持つ「豊かな個人」の国なのだ。わが国がかつて「治安の良い国」と呼ばれたゆえんもそこにある。そうした日本に私は大きな充実感と誇りをさえ覚えたものだ。それは、昨今のわが国に顕著なように、必要以上の「物」を得るための代償として捨て去るにはあまりに勿体ない貴重な文化的財産である。“必要以上”を見つめ直すことが肝要なのではないか。
ゲーテの言葉を借りようか・・・「内なるものに富む者は、すでに豊かなのだ」
ここ70年間に、ニッポンは却って貧困の国になり下がったのかもしれない。
●
盲目的に西洋文化の「自由」に馴染んで心の内なる<法>を捨て去ると、もうそこから先はエゴが生(なま)のまま社会に飛び出してきて、周囲に犯罪やら反モラル的行為をばらまく結果となる。そこで傷付くのはわれわれ自身なのだ。
エゴむき出しに、獣性が横行する社会であれば、それはもはや人間の社会とは言い難い。動物の進化の流れは、その「エゴ」の上に「心」と「理性」そして「やさしさ」を積み上げ、類人猿を越えて人間へと進んできたはずだ。
社会も個人も物質的財産に富むのはいいとして、引き換えに、折角の内なる心の財産を捨て去るのは大きな損失であり、進化の歴史を逆行することにもなろう。
●
物の豊かさは肉眼でもって捉えることができる。単純に一つ二つと数えることも可能だ。
しかし心の豊かさは捉えられない。それを捉えることができるのは、確かな心眼だけである。
●
長い時を経ていまなお残る諺には、よく出来ているものが多いと感心させられる。
ただ一つ「ボロを着てても心の錦」というのがあるが、これにはいささか抵抗感が残る。
心と体を持つ人間存在であれば、「心も錦、衣も錦」に越したことはないと思っている。
●
とは言え、輝くのはむしろ数字を離れた世界だ。
●
「私」が存在するために不要なものを削って削って削って、削ったのちになお残るもの、それが俳句であり、仏教の神髄であり、座禅・悟りであるような気がする。
●
無意識のうちにも繰り返されている私達の呼吸。それを意識に上らせ、そこに念を絡み込ませることが【悟り】の世界へと進み入る一つのルートだという。うん、割に分かりやすそうな気がする。「私はなぜ呼吸をしているのか?」「誰に教えられてか?」。「その向こうに見えない力の企みと、宇宙が存在しているのだ」ということであろうか?【悟り】は「それと一体に成り切る」ということのようである。
●
信仰とまではいかずとも、せめて理念として。
●
孫の時代?
まだ早い。
曾孫の時代?
まだまだ……
●
自由と豊かさの中では
ミルク桶にはまって溺れる子猫もある。
物質的に豊かな社会では
多くの家庭にも大きなミルク桶があって
子猫が溺れる確率は高くなっているようだ。
●
いじめがよくないのは言うまでもない。
簡単に言えば、他者と自分を置き換えてみる心の訓練ができていない。
しかし、いじめられたから自殺するというのでは
北風が吹いたから倒れたのだという立て看板の理屈のようである。
至極当たり前にして当たり前な「物理」の域を出ない。
その論理の中には物理から突出すべき「人間」がいない。人間力が見えない。
人間は「北風」というネガティブを
「人間力」という「知恵と心」のパワーでポジティブへと裏返し、
一段の高みへと自らを昇華させるはずの存在だ。
それが単に物理ではない「人間」の業というものだ。
病気、災難、いじめ、等々人生には様々なネガティブがつきものだ。
それらは自らというかけがえのない存在を
ワンランクアップさせるための
絶好のアイテムともなってくれる<問答無用の宝物>でもある。
●
涙の中でしか見えない真実がる。
涙を絞った経験のない者には永久に見えない真実がある。
●
青い地球は今アメリカ色に塗りつぶされつつある。
“♪あ〜おい地球〜は だ〜れのもの〜♪”
●
文化は国家(民族)のプライバシー。
●
【傾斜した環境】
1.春
蝶が 誕生した
農薬を含んで
羽が2枚半であった
花へ飛び立てなく
3時間と30分
地べたをはいずり回って
……いのちが終わった
いま野菜を食べる限りぼくも<被告>の一人
であることに気づいた
「<被告>になりたくない」と願った……が
ぼく一人で罪を避けようもない社会組織なのであった
多くの人々は自分だけは善良な市民だと信じているのか
又は「そんなことはどうでもいい」と思っているようにも見えた
ぼくはうつ向いて「私は罪人」とつぶやいた
2.夏
崖の上に 別荘が建った
大雨で崖が崩れて
崖下の 長家が押し潰された
二人死んだ
……ヤジ馬が集まって
散っていった
儲けに走った不動産屋の
手抜き工事が原因だった
3日後・・・
♪チータカパンパン
チータカパンパン♪
近くの広場で盆踊りがあった
大勢が集まり
遅くまで踊った
3.秋
<芸術>という文字が
目につく季節であった
外国から<有名な芸術>が相次いでやってきた
会場には日本人が押し掛け
多くは<有名>を観ているらしかった
肝心の<芸術>はといえば
人の頭と衣裳と香水の匂いで
会場裏口から逃げ出していたようであった
4.冬
年の瀬が近づくと
街は味と色と音とホコリで賑わい
人々の心はカネと物に浮かされ
漂い流され渦巻くのであった
そんな状態を人々もマスコミも政府も
<繁栄>と呼んだ
<繁栄>の中では
バングラデシュやカンボジア
エチオピアやらの飢えた子供の泣く声も
自分に向けて流されるべき涙も
騒音に掻き消されて
サンタクロースと赤鼻のトナカイの
おとぎの世界より遠くへと
押し流されてしまうのであった
商店街のはずれに佇んだぼくは
北風に晒されていて
寒くて 震えた
* *
遠く 独り街なかをさまよい
クツ底をすりへらした日々
拾い食いをした幼い日のこと・・・
「何食ってる、よこせ!」
「なんだオカラか!」
食べかけた白いオカラ玉を奪われ
嘲りとともに黒い地面に飛び散った
白く幼い自尊心のこと・・・
かなしくもなく うれしくもなく
飢えた子どもにせめても重なれる心を
人生に持てたこと・・・
●
理念を持たないエゴイズムは、獣のそれに近い。
ゴミの山を残す文化ではなく。
いま地球を食い尽くすわがまま文化ではなく。
「アオムシさん、青い葉っぱを
あしたのために残しておいてね」
●
バック転をすると景色が新鮮に見えるよ。
反り返ったままでじっと見つめていると、涙がにじむよ。
●
発展途上国の人々は日本の経済力を横目で見やりうらやましく思うのかも知れない。しかし、代引きで売り飛ばされた数々の精神性があることに気づく人は滅多にいない。そのことは日本人自身にも言えることだ。
●
ちょっと立ち止まって………………
・病気のお金持ちと、
・貧しい健康者と、
・両方のいいとこ取りと
いずれになりたいかが問題だ。
………………
●
先公の言うこと聞けるっかい。
ポリ公の言うこと聞けるっかい。
オトンの言うこと聞けるっかい。
オカン泣かせてなぜ悪い。
オジン・オバンは黙ってろい。
「民主主義」さんとやら ありがとよ。
オレら「自由」を得たんじゃい。
指導者を拒否する自由を得たんじゃい。
我慢を拒否する自由も得たんじゃい。
オトンに噛みつく自由を得たんじゃい。
オカンを怒鳴りつける自由も得たんじゃい。
先公の言うこと聞けるっかい。
ポリ公の言うこと聞けるっかい。
オトンの言うこと聞けるっかい。
オカン泣かせてなぜ悪い。
オジン・オバンは線香臭い。
親にはオレらを養う責任があるんじゃい。
さもなきゃ保護者遺棄罪で捕まるんじゃい。
オレらのやらかした行状は
親が尻ぬぐいするのが当たり前
子どもの「権利」というもんじゃい。
「民主主義」さんとやら ありがとよ。
オレら「自由」を得たんじゃい。
●
いま公立の教育界では指導の一環として「思い出づくり」ということに力を入れているようだ。
しかしもともと思い出というのは、人生の中で結果として生じるものなのであって
故意につくりあげるものではない。それは本末転倒だともいえる。卒業を近くにひかえたこの時期、
♪友よ 思い出より輝くあすを信じよう…♪
♪卒業は出口ではなく入口…♪ と歌うAKB48の秋元康のフレーズの方が
はるかに説得力をもって胸に伝わってくるのはなぜなのか?
●
べんきょうは、
「人生ゲーム」のアイテムを
ゲットする努力。
●
人が卒業するのは人生でただ一度だけ。
それは死ぬときに違いない。
●
以前、“聞き分けのよい”は、“子供”にかかる形容句であった。
いまそれは、“親”にかかる形容句になったようだ。
大地震があって太平洋の向こうから大津波が押し寄せたのだろうか?
ニッポンでは自然な親から子への文化の川の流れに逆らって海水が遡上する逆流現象があちこちで見える。
●
民族は親から子、子から孫へと物心のリレーを走る。
しかし、この民族は次のランナーが、心のバトンの受け取りを拒否したがってリレーは成立し難くなっている。
親は戸惑い、子はさすらい、民族の心は萎える。
そしてこのニッポンがここに在る。
●
遺産相続を拒否した場合、
それを受け入れたときより、貧乏になる。
伝承は心の遺産相続。又は、生前贈与だとは考えられないか。
♪若者達、遺産はいらんかえ〜♪
♪ 贈与はいらんかえ〜♪
●
若いひとたちへ(少し重たい話)
若い人が小・中・高・大、と約16年をかけて学校生活を終え、社会へ巣立とうとするとき、社会への門の傍らに門番が立っていて、大きな声で次のように君に問いかけます。
「オマエは16年の間に、社会に売ることの出来る何を蓄えて来たのだ!?」
●「役立つ知識か?」
●「優れた技術か?」
●「活かされるべき資格か?」
●「ハイレベルな大学の卒業証書か?」
●「人に信用される人望か?」
●「その他、社会に買う気を起させる自信があるものを持っていれば申し述べよ!」と。
「はい……あのう……そのう……自信と言われましても……ふがふが………」
と、口ごもっていると、門番は即、言い放ちます。
「この役立たず、さっさと立ち去るがいい! オマエ一人に手間取っているヒマはない。さあ次の者、前へ!」
いま、学生生活を送っている若い人たち全員に言いたいと思いますね。「気づいていますか? いまこそが金の時間」
社会に出るまでに、社会がお金を支払っても買いたがる何かを、自分の中に蓄え準備しておくべきだということです。いまこそがその大切な時だということです。時間は巻き戻せないし、人は社会なしでは生きられないのだから……。
「戦争と平和」という小説を書いたロシアのトルストイは、言いました。
光あるうちに、光の中を歩め
●
民族の背骨の溶解。
一尾のイワシでもよい。サンマでもよい。民族の背骨を持とう。背骨を持たないと
イワシもサンマも民族も、バラバラになる。
今日限り、背骨をなくした「日本自虐」はやめにしよう。
●
◆男の仕事◆
いま父親のセリフ。「娘に褒められると世界に褒められた気がする」
なぜ対象が娘に限られるのか、息子は含まれないのかも気になるところだが、この父親のように男がだらしなくなったことだけは否めない。
「ことに年をとった男は役にたたないねえ。年をとっても女なら炊事・洗濯・買物・料理・掃除・孫の守り、役立つ場面も多いから所詮生き甲斐も残せるのだが、定年後の男なんか邪魔にならないよう電気掃除機に追われ家の中を逃げ回るのが精一杯だ」と私が言うと、妻が、
「そこに元気で座っているだけで、家族みんなの重石(おもし)になって役にたってますよ」と言う。
「そうか。家族みんなの漬け物石か。そう言ってもらえればうれしいね。せめておいしい漬け物が漬かりますようにってね。……気が付けば漬け物石が“軽石”になっていたなんてことがないよう自分の心をよく吟味して重石であり続けなければ……」
「そうですよ。そうしていてもらえれば、きっといい子どもたち、孫たちが育ちますよ。それは掃除洗濯にもまして大切なことです」
●
くすぶる・・・
常識を再検討する。
現行の民主主義を疑う。
タブーも再検討する。
そこからぼくたちの新たな活性、前進が始まる。
行く道の霧が少しずつ薄らぎ、
ぼくたちは夜明けを獲得していく。
●
「新しい」からといって「正しい」という理由にはならない。
●
「権利」とか「平等」……民主主義は個人とその横の関係についてはある一面を語ってはいるが、縦の人間関係については全くと言っていいほど語れていない。
例えば「伝承」だとか「祖先」「親・子・孫のつながり又は敬愛」だとか「目上・そこからの学習」とか「民族性・慣習・固有文化の尊重」とかがその類でる。
こんなにもこぼれ落ちているために、ヨーロッパ産アメリカ仕立てのわが国民主主義はこんなにもちぐはぐなのだ。
おじいちゃん・おばあちゃんがいたから、ぼくがいる。
ぼく・私がいるから子どもが生まれる。孫が生まれる。
至極当たり前のことなのだが・・・・・
●
人は民主主義によって存在しているわけではない。大自然の息吹として存在しているのだ。
順序を取り違えると、ねじれ又は逆流現象が起きて当然だし、人はめまいを感じつつ幸せを遠ざかる。
大自然の法に叶っている限りにおいてのみ、民主主義もその他のあらゆる人間のイデオロギーも正しい。
それ以外の部分は幻又は誤謬に過ぎない。
●
人間のタテのつながりを希薄化させた分、ヨコのつながり(友達関係)に急がないとひとりぼっちが耐えられない。
だから長々と携帯でしゃべりつくすんだ。
友達が自分と同じだからといって、互いが正しいという理由にはならない。
若者達のその父への自然な感情を疎外したのは何なのか?
その母への自然な思いを疎外したのは何なのか?
その祖父へ、その祖母への自然な思慕を疎外したのは誰なのか?
●
簡単に「キレた」「キレた」という若者は、老人ホーム又は病院痴呆病棟の介護士・看護師をしてみるがいいだろう。1日として務まらないだろうね。
●
もともと「個人」も「国家」も「動物」や「植物」も平等には作られていない。
水に恵まれる者、光に恵まれる者、地に恵まれる者、様々である。
●
■一つのつぶやき…1.25■
「結婚すれば<自由>が無くなる」
「子どもを産んだら遊べなくなる」
そんな理由もからんで・・・・・1.25人。
日本の国家的衰退。
子どもは可愛いみたいだけれど、
今、子どもは
「私の子ども」ではなく
「私と子ども」
<権利>1対1・・・
私と<権利>が相克し合う対マン相手はうっとうしく、疲れるわ。
そんな相手に<時間>を奪われ
<素敵なプロポーション>と
<カルシウム>を奪われ
<おカネ>まで奪われるんだ。
子ども1人育て上げるのに3000万円かかるという・・・堪まんない。
しかも子どもは行く先私の面倒なんか見てくれやしないし見なくてもいいのだ。
それなら子どもは社会の子ども
子育ては大嫌いな社会奉仕。
お向かいのおばさんなんか
子どもに襲いかかられやしないか殴られやしないかって
恐れながら子育てしている
「産んでくれなんて頼んだ覚えはない」って言うんだって・・・・・
ありがたいことに、子どもを産まなければ罰せられるという法律はない。
知ってんのかどうか分からないけど、
親だって私に結婚だの子どもを産めだの催促したら、即“セクハラ”になるんだからね。
私には有利ないい権利、いい時代だわ。
私の老後は年金でなんとかなるのかも、ならないのかも・・・。
何十年後のことまで心配してはいられないわ。
生きてるものやら死んでるものやらも分からないし・・・。
そもそもニッポンが存続しているのやら消滅しているのやらも分からない。
だから……♪ケ・セラ・セラ なるようになるわ♪
とにかく“今を生きる”・・・いい言葉だ。“今を生きる!”
今年も海外旅行に行こう!
駅前の旅行代理店JTBで
あしたパンフレットをもらって来なくては・・・
ヨーロッパ1週間・・はムリだけど
香港・マカオ、ハワイ、沖縄・グアム、韓国・・・どれにしようかな?
親孝行なんて人の縦のつながり
古い約束事はどの教科書にも書かれてないからね。
新しい、新しい、新しい、とにかく新しいことはいいことなんだ。
新しいことは正しいこと。
オナカ痛めて子ども産んだってこの自由の時代、
親の手の届かない場に引きずられてどんな子どもが育つことやら、
見通しなんてさらさら立たないわ。
養育に2000万円、加えて1000万円ものおカネ使って、
勉強出来ない子どもまで大学に行かせるのが社会の常識だなんて、
そんな無理言わないでよ。
だから今夜も街はずれの白いヨーロッパ風のお城で“コンドーム”・・・
“今度産む”・・・なんてホントかな??
上手くネーミングしたものだといつも感心したり笑っちゃう。
アノ最中にだって可笑しくなって笑えてしまうんだ。
おかげで前の前(だったかな?)のカレシ、本気になって怒っちゃって、
それで、バイバイだって。アチャー!バカみたい!
コンドーム“今度産む”は“今度産む”で、
“今度産む”は、やっばり“今度産む”で・・・
永久に“今度産む”で・・・・・結局産まないんだ。
笑わないよう我慢したら、どっと吹き出しちゃうんだもの。
でも、笑いごとではないわ。
失敗したらどうしよう、おお怖!
病院行くのなんて痛そうだし恥ずかしいしおカネ要るし、真っ平だわ・・・。
しかし上手くいって、上手くいって、上手くいって、ずっと上手くいって、
50歳になったら・・・それも“キョーフ”だわ。イヤだ、イヤだ!
生まれてきたくなかったかも。
行きつけのホールで、
「いつものお酒ちょうだい」「ワインちょうだい」
お酒だけが私の味方みたいで、確かみたいで、不確かみたいで・・・
「涙なんて流れてないもんねーだ。淋しくなんてないもんねーだ。
ちょっぴりコップのお水をこぼしちゃったぁ・・・だけ。
拭けば跡形残らないもんね」
だからこのまま。だから・・・私はあしたで31歳。
人生の一番おいしい若い日々、
わたしは上手に使ったの? ヘタに使ったの?
とにかく・・1.25人。
不自然さの数字。
淋しさの数字。
いいイデオロギー。
いい教育。
いい政治じゃん。
「ねえ、人生で大切なことそっと教えて、耳打ちしてよ。ねえってば!」
「ひょっとして、自由は淋しさの始まりかも。
両手で抱き合って愛されて愛してしまって、
ひどい仕打ち受けたっていいじゃんてこと。
泣きの半日喰らったっていいじゃんてこと。
それでも両手広げて愛されて愛して、
束縛だって生き甲斐かもね。
束縛こそが温ったかハグのことかもね」
(注)1.25人…日本の夫婦が一生に産む子どもの平均人数。
●
いま、育児は母親より保育所や幼稚園の保母さんなど、子育てについて勉強をしているプロに任せる方が合理的だという考えが若い女性達の間にある。母親が子育ての束縛から解放されて自己実現に時間を残すこともできるというのだ。まるで子どもを育て上げることは自己実現とは無縁であるかのようである。プロの手で育てられる方が子どもにとって幸せでもあるのだと力説する。
合理主義万歳!
*
94歳。いま病院のベッドで酸素吸入を受けながら日夜眠り続ける一人の女性を私は知っている。この女性は左足に障害を持ちながらも5人の命をみごもり、産み、育て上げ、いま人生の終末を迎えようとしている。女としてなすべき仕事を充分過ぎるほどに果たし終えたのだ。言葉はいらない。無言で眠り続けるこの女性が、正しく、きらきらきらきら輝いているのが見える。もし大自然の背後に神がいるのであれば、この女性は大自然と神の前に立って、正しい。この女性がこれといった社会的ビジネスをなしていないからといって「自己実現」を果たさなかったと誰が言うのか。この老婆を熟視すればいい。社会的であることばかりに人間の価値観を求める昨今の日本人の思考が、いかに狭量・傲慢なものであるかがひたひたと伝わってくる。
●
一つの分類方法として、労働には2種類ある。「家庭内労働」と「家庭外労働」である。双方共に等しく重要なのだが、物とカネが偏重される現代ニッポンでは、収入につながる家庭外労働が偏重され、家庭内労働への従事はとかく蔑視又は軽視される傾向にある。その偏った思潮が少子化社会を産む土壌にもなっているようだ。
加えて折も折、「男女共同参画社会」という政策が声高に叫ばれている。この「社会」という言葉の定義付けが非常に曖昧で、家庭内社会をも含むのかどうか定かでない。私の周りの者に解釈を尋ねてみると「家庭内社会という発想は含まれていないでしょう」という答えが殆どだ。政治家たちの意味づけがいずれなのか分からないが、私たち国民の解釈は家庭外社会のことなのだ。となれば、夫婦共に手を取り合って外社会へ出ていってしまうことを政治が奨励していることにもなるわけで、家庭内に親はいなくなる。そこに子どもだけを放っておくわけにはいかない。外社会に託児所等が完備しておればそれなりに防護網ともなるのかも知れないが、それ自体政府にとって経済的大きな負担となり、実現されていないのが現状である。核家族化だからおじいちゃんおばあちゃんに子どもを預けておくのも難しい。即ち夫婦に子どもは産めない、という環境が押しつけられるわけだ。「男女共同参画社会」・「少子化に歯止め」……政府の二つの施策の間には大きな矛盾があり、両施策は場当たり的、稚拙であると言わざるを得ない。「男女共同参画社会」自体に無理があって、またまたニッポン社会が鵜呑みしたアメリカ民主主義の机上の論理に翻弄された結果であるとも言えそうである。
ひずんだ時代思潮と稚拙な政策、加えて互いが自由でいられるという核家族化も重なり絡み合って、若い夫婦の家庭内社会は真空化、希薄化し、両社会のバランスは崩れてこのままでは「少子化に歯止め」など不可能だと言わざるを得ない。
目先の経済、カネに結果を求め、マン・パワー、自然活力、人間自然をなおざりにしてきた政治の責任は否定できない。
数年のうちに人口が減少に転じるというニッポンだ。いま人口13億とも言われる中国、又、頭脳明晰と言われる民族インドの、アジアにおける台頭が示唆されている。労働力衰退、活力減退へと向かうニッポンは高齢化社会という経済的重荷を背負って、国際社会の大海を羅針盤もなくどこをどうさまようのか、アメリカにしがみついてさえいれば・・・では、はなはだ心もとない。もしまだ間に合うのなら、国民の意識改革をも含めて“日出(いず)る国”が“日沈む国”とならないよう早急に対策を講じなければならないはずである。
●
「個」の時代……「個」ばかりが強調されると「連帯意識」がかすむ。
「男女共同参画社会」……父親と肩を並べて母親も外の社会へ出ていくと「家」に親がいなくなる。
子どもへの「情緒の川」は涸れ始める。
情緒は過去、多くが母親から子どもへと絶えることなく流れる「やさしさの川」であった。
キラキラ光る「心の川」であった。
ひとり情緒の涸れた河原に遊ぶ子どもたち………
「♪坊やよしよし」「♪ねんねんころり ねんころり」
マスターベーションよろしく
子どもは自らが自らに唄いつづけて、
こころの襞の数に比例して引きこもりへと自らを傾斜させる。
河原でひとり石から石へと飛び歩き、すべったり、転んだり……
大石小石でヒザを傷つけて、胸を打撲して、
「痛いよう、痛いよう!」
ヒザからにじむ赤い血。
胸からにじむ赤い血。
泣いたって、だあれもいない。
大人たちは
「なんてったって男女共同参画社会! やれ めでたいめでたい!」
いつでも犠牲になるのは子どもたち
オサカナみたいに 物言えない子どもたち
ウサギみたいに 語れない子どもたち
ねえ。ねえ。
こんなオジサンでよかったら、
いつだって一緒に泣いたげる。
●
おかあさん
あなたの子どもへの川「心の川」は
あの高山の湧き水のように
いまもあふれ、流れ続けているでしょうか?
かつて愛する心は主として母から子へと
とめどなく惜しみなく流れ続け
その温もりの中でわたしたちが育ったことを
いま憶えていますか?
子どもの二つの瞳の中に
あなたの姿は映って見えますか?
あなたのお顔はマリア似で、ほほえんでいるでしょうか?
●
女性は子どもを産み、育てることで、
海底のプランクトン時代から連綿と受け継がれている大自然の<生命>を
永遠に向けて運ぶことが出来ます。
これこそ一人の女性がここ(地上)に存在したことの確かな意味づけですね。
お隣のおばちゃんも、お向かいのおばちゃんも、
<母>はみんな永遠への<生命>の運び手、偉いんだ。
みんな「自己実現」しよう。
自分自身の花を咲かそう。
●
澪つくしの鐘の音も、寺院の晩鐘の音も、チャペルの鐘の音も、近所からうるさいと苦情が出るそうです。
その心にうとい者には、騒音公害に過ぎないことになるんでしょうか。
全て輝くもは心に始まるのかも知れないのですが・・・・・
●
人間はつまるところ大自然に足場を持つ生き物である。
だから自然法を離れると、しおれ始める植物のように幸せにはなれない。
動物と植物はイデオロギーを持たない。
社会主義だとか、資本主義だとか、民主主義だとか、
人間だけがイデオロギーを持ち、ともすれば自然性を見失い、不幸の岸へと近づく。
●
「自由」「権利」はいいけれど、私何しに生まれて来たの?
●
せんだってのギリシャ、アテネ・オリンピック、水泳女子800m自由形で金メダルを獲得した日本の若い選手、
「どうして苦しい長距離を選んだのですか?」の質問に、
「わたしは泳ぎが遅いから、せめて長距離だったら我慢することでなんとかなるかもしれないと思ったから」と笑顔で答えた。
今若者達は功績を挙げても偉ぶらない。古い立身出世主義が影をひそめたからだろう。功を積むことより、自分の「夢」「希望」又は「全人格的衝動」に駆られての行動なのだ。もはや「自己実現」などと大仰なことも言わない。自分を咲かせて淡々と笑っている……そんな花のような現代の若者にこそ乾杯!
●
いま日本の刑務所は犯罪者であふれ、殆ど収容不能の状態だという。物質的貧困の果てのことではない。「自由」「人権」「物」「カネ」「セックス」。行き過ぎたエゴイズムに起因するようだ。その最果てで日夜闘う刑務官のご苦労が偲ばれる。人々の内面性の再構築が急がれる。刑事犯罪にまでは至らなくても、道徳犯罪とでも呼ぶべきものはこの100倍、1000倍の勢いで社会を覆っているのだろう。それ以上なのかもしれない。社会を堕落させるのはわれわれであり、その被害をこうむるのもわれわれだ。いま、何パーセントの国民がこの社会に在って自分を幸せだと断言できるのだろう。
明日、私もあなたも被害者になるかもしれない。
●
「掟」を己の外に待たず、内に構築する。
●
民主主義批判を受け入れてこそ、民主主義かと思います。
●
民主主義社会にあっては、人気者が<華>。人気者が過半数を獲得すれば<力>。
●
いま、一般的にこういうことが言えそうだ。
子どもを育てることは親にとってクジを引いているような状況にある。
親自身己を律し、心いっぱいの愛情をもって育てたからといって、真面目で心豊かな子どもが育つとは限らない。よくないと見える環境に育っても真面目で心豊かな人間に育つ子どもも少なくない。いま、育て方とその結果の間に必然性とか因果関係はほとんど見当たらない。
どう育つかは、多分に子ども一人一人のアメリカ民主主義に端を発する「自由」の受け止め方と、人としての「内実」の生育度にかかっているように思える。
あえてこの状況を危険を顧みず粗っぽく数式で表現すると、
〔自由度−内実度=おじゃま虫度〕となる。
*
(但し、極まれにおじゃま虫度が動機となって自覚と鍛錬を通して花を開花させることもある)
●
また、傾向としてこういうことも言えそうである。
親は愛情を注ぎ犠牲も払い子どもを育てても、子どもたちは親も含めて人間みんな仕組まれた本能のままに自分がしたいことをしているまでなんだ、と単純に考えるのだ。ここでは愛や努力も物理のしろものに化けて、一切をパンドラの壺ならぬ冷たい“物理の壺”の中に放り込んでしまうというわけだ。だから、涙溢れる感謝とか胸を突き上げる感動は涌いて来ない。
こうした若者にとっては、「積み木細工やロボット、テレビゲームの中のキャラクター」と「人間」の差は限りなく近づく。
●
いま、ロボットの人間化。人間のロボット化。
ロボットは目から水をこぼすことは出来ても、泣けない。
人間とロボットの重要な相異。
……泣けるのか。泣けないのか。
いま泣けることが人間の証明ともなって、
財を貯め込む。
有名になる。
博識である。
それにも増して「豊かさ」とは、
泣くべきときに正しく泣ける自分てあること。
●
【ときには数字は嘘をつく】
人間は、水分と脂肪とタンパク質とカルシウム他からできています。
だからといって、人間を水分と脂肪とタンパク質とカルシウム他だと言ってしまうのは間違いです。
人間一人分のそれらは、子どもで3000円、大人でもせいぜい4500円位だといいます。
それが人間ではありません。人一人4500円で買ってくることはできないからです。
素材が集まりそれぞれにふさわしい位置に就き、特質を発揮しながらからまり合い有機体≠構成したとき、
生命≠ェ生まれ、輝き始めます。
この生命と輝きと共に人間があります。
4500円……数字は実体を表しません。
数字で結論を出すと、数字は却って嘘をついてしまいます。混乱と迷いと虚脱を生み出してしまいます。
文章も、行間、行と行とのからみ合いが大切なのだと言います。
映画やテレビドラマだってそうなんです。シーンとシーンの関わり合いが感動を生み出します。即ち、モンタージュですね。
からみが振幅をもたらし、振幅が音を発し、感動・命を生むというのでしょうか。
この辺まで到達して初めて「真実」が少し見え始めるような気がします。
数とか物質は実体や真実のための素材に過ぎません。名曲に到るまでのひとかけの音符、又は生命を盛るための乾いた器です。
●
器のことはひとまずこれでいいとしよう。
さて、何を盛るのかが問題なのだ。
●
内実を備えずに「自由」ばかりを先ねだりするというわがまま、甘え。
●
努力を避けて「自分は自分のまま」と個性的を装ったりして。
人間の個性は獣のそれとは異なる。
人間の個性は、訓練された個性。
●
昨今、一部女性が主張する、投手が2人いて、捕手のいない平等夫婦バッテリーというのはいかがなものでしょうか。
「あなたが10球投げたんだから、こんどは私にも10球投げる権利があるの! それでなきゃ不平等!」
「投手も人間、捕手も人間、どこが違うの! こんどはあなたがキャッチャーよ! 10球ずつで交代よ!」と主張する算数好き女性捕手は困ったものです。そんなプロ野球の捕手を見たことがありません。
「平等」という言葉を単純解釈し、ポジションの認識を失ったのでしょうか。ピッチャーを目立ってトクだと考えているのでしょうか。9人の野手を束ねるキャッチャーの仕事に誇りと感動を持てなくなったのでしょうか。平等≠フ文字をおなじ≠ニ誤読したのでしょうか。これも「権利」と「平等」のアメリカ民主主義のなせる業なのでしょうか。草野球ならともかく、プロの捕手にはなれません。チームもろとも、勝利に至ることにもならないでしょう。当然のことですが、投手は投手、捕手は捕手、特性に基づいた分担作業が求められます。
夫婦は、まさしく野球のバッテリー。投手は投手、捕手は捕手、そして二人は平等です。投手は捕手を信頼し協力し、捕手も投手を信頼し協力し、それぞれの持ち場を見事にこなすときよいバッテリーが誕生し、共に勝利を手にすることも可能です。
●
民主主義が見落としているもの、「守備位置」の理念。「……らしさ」の理念。
民主主義は、とかく「ぬっぺらぽう」を希望する。
●
【強い女になりたくて】
強い女になりたくて
男と肩を並べたくて
男より1センチでも高い肩がほしくって
女子プロレスを応援に出かけてはみたものの
観客席の椅子の形でお客様
肩はやっぱりもとのまま
強い女になりたくて
男と肩を並べたくて
男より1センチでも高い肩がほしくって
男言葉をしゃべってみても
男の面を張ってはみても
肩はやっぱりもとのまま
男より1センチでも高い肩がほしくって
オフィスの男どもの前では
一日ずっとつま先立ち
マンションの自室に帰り着いたら
足がつって体が綿になって
もう立ち上がれない動けない
こうなりゃマイナス思考にもなるわけで
男の肩を引き下げるしか方法はないと
男に厳しくあたってみても
男も自分に厳しくなって
男の肩は高くって
女の肩はちょっぴり低くって
肩が低けりゃダメと慌てるものではないわけで
それは自然の知恵が生み出した特性なので
それぞれに「守備位置」というのがあって
それを果たせばみんな燦然輝いて……
ライトを守るイチローの守備は
キラキラ燦然輝いて……
「強い女」と「我が強い女」とは別もので
「強い女」は 他人に心やさしくて
自分にこそが厳しくて……
●
女性よ、しんじつ強くなろ。
男性も同じく強くなろ。
●
それが正しいか、正しくないかは別として、
わが国で言う「いいお嫁さん」とは、「こころの利口な、情緒豊かなお嫁さん」ということのようだ。
●
この世には男と女がいるのがいい。
●
いまニッポンでは、「平等」の文字が「おなじ」と誤読されて、
先生と生徒は格闘を演じて混乱し、
女性は男性化し男性は女性化してしまった。
女性たちはその先達が長い歴史を通して培った
ノウハウやパテントを捨て去って
いま赤字に苦しむ会社経営者のような状態にある。
はっきりと女性は女性だろう。
男性は男性だろう。
両者は異なりそして平等なのだ。
●
男と女は凸と凹。
凸だから凹を追い求め、凹も凸を追い求め、
うまく噛み合えば新たな長方形を象って「おめでとう!」というわけだ。
少々噛み合わない程度なら
喜んで痩せたり、膨らんだり、変形したりも出来る。
プライドさえも捨て去って相手にドッキングできるよう努力もするんだ。
こうして命を未来へと繋ぐ。
かわいいね。いとおしいね。
大スキだよ、男と女。大自然のやさしい計らい・・・
●
いずれのイデオロギーにも拠らず、
大自然の事実にこそ学ぶ。
アメリカ民主主義の向こうにはアメリカ人が見え隠れする。
大自然の向こうには神が見え隠れする。
●
民主主義とは関わりなく
心臓は鼓動を打ち血液は体内を巡る。
民主主義とは関わりなく
大自然が命じるままに夕焼け空は美しいし、
笑う赤ん坊は愛おしい。
イデオロギーとは関わりなく・・・・・そのずっと向こうにある、
もっと地鳴りを聞くような<真実>のこと。
●
己を失って協調はない。鮮明な己が在って鮮明な協調もあり得る。
●
北朝鮮はいつかテポドン撃ってくるのかなあ。
中国はそのうちに原子力潜水艦で攻撃してくるつもりかなあ。
日本はむざむざとそんなものの餌食になるわけにはゆかないのだから、
正論を離れて日米同盟は手放せないのかなあ。
社会主義国に、日本は否応なくそういう方向に押しやられているように思うのは
ぼくだけの妄想かなあ。
●
◆目覚め始めたアジア。……中国、インド、etc.
◆日本、アジアを振り向く。
◆日本の失敗・・・アメリカへの際限のない迎合。
固有文化を無視した急激な物質主義化、欧米化。
◆世界は変動する。
近未来、日本・中国・インドだけで世界の50%超えのGNP実現可能という。
◆アジア経済連合「AU」の実現。
◆国家としての主体性の確立。
◆占有を恥じとし、物心の繁栄を共にする。
●
抱き合うべきは、男女ばかりとは限らないよ。
親と子
先生と生徒
姉と弟
友と友
人間と人間
・・・・・・・
●
身売りをすると、内なる文化が涙を流す。
●
国家であれ個人であれ、所属すると語りにくくなる。
●
特殊な企業以外は
大手企業といえどみんな孤立無援の自営業者。
●
事業の成功のカギは時宜を得るかどうかである。
●
日本の女性作家が言いました。「そりゃあ便利に勝るものはありませんからね」
「えっ? そうだっけ?」 めまいがした。
こころの充足、生き甲斐のためなら不便も残す。不便も抱く。
●
親が娘に「赤ちゃんまだ?」と尋ねるのもセクハラになるのだとか。
いまに、親が子どもに「勉強しなさい」と言うのも、児童への人権侵害罪となるのかな。
民主主義の人権倒れ。
円周率は少数点以下が省略されて「3」なんだって。お手てつないでゴールする走競争。地動説は教えないのでガリレオ死去以来初めて天動説が小学生の間で甦ってるんだって。日本病気? イデオロギーによる歪(いびつ)はやめて、自然でいこうよ。
●
【痴呆老人病棟から】
A病院痴呆病棟を歩くと大勢の老人たちに出会う。
ここに住む人たちは、誰もが人生を貫き終えた人たちなのだ。
「この世の営みはもうそろそろいいからね」
大自然からやさしくそう告げられ解放されつつある人たちだ。
だから私も言うよ。「お疲れさま………」と。
ここにまでたどり着くのが大変なのだ。
この老人たちを侮る者は自らとその人生を侮る者に違いない。
窓から差し込むやわらかな秋色の西日の中に、
かがんだ老人の背が金色に輝いているのが見える。
「年平均約7人の方がここから別の世へと旅立たれるのです」
数歩あとを私も歩んでいますよ。
数歩遅れて私もあなた方を追うように旅立つのでしょう。
みなさん方と同じように
きっとかすかな秋色の光に輝きながら…………
●
愛は「力」
愛は「やさしさ」
愛は「やすらぎ」
愛は「生き甲斐」
そして……
散るさくら 散らぬさくらも 散るさくら (良寛)
●
突然テレビから発射されるコマーシャルの大声、衝撃的音響。それは現代企業の横暴であり、間接的にその全社員及び株主の横暴であり、結局われわれ市民自らの横暴である。人間は常に、自らを狙い撃つのだ。
●
民主主義の「平等」に馴らされたせいかどうかは定かでないが、今、物ごとを判別するとき価値判断を避けて地図を見るように平面上で捉える傾向が強い。しかし事実というのは平面ではなく、そこには高山もあれば谷もある。盆地や山脈もあれば海溝もある。高きもあれば低きもあるわけだ。われわれの取り巻きに於いても稚拙な考えもあれば深い思考もあるわけだし、品格が高いもの低俗なものがある。平面的に二次元として捉えるのではなく、立体的に三次元として捉えるのが事実を捉えるときの正しい姿勢だ。さもないと、この世は結局ヌッペラポウと化すわけだ。おお怖!
●
女性がオナカを痛めて子どもを産むなんて不合理だし、男女平等の原則に反するという女性達の主張で、近い将来子どもは技術的、工業的に子どもを産むことになるのかもしれない。
●
金沢のとある場所に、歩道にはみだしたショウジョウ桜の古木があるそうです。しかし地元の人たちは決してこの老桜木を切り倒さず、今もかがんで、かいくぐって往来をしているといいます。
「温故知新」……
いま私達は生物が長い進化をとおして、また先人達が長い生活の歴史をとおして築いた過去、即ち文化をやさしく心に温めながら、その継続として新しいものへと向かわなければならないでしょう。われわれは新しさに有頂天になって、文化を断絶させる傲慢としくじりは避けなければなりません。子どもや孫の時代になって禍根を残したとしたら償いようがありません。私達のそれと同じように、先人達には先人達の汗と涙と苦労と血へど、即ち「生活」があったのです。文化はそれら一滴一滴が溜まった知恵の湖です。刹那的に否定又は軽視する筋のものではありません。
●
雪を被った厳冬の桜木。その無骨な幹の中に、幾千きらめくうす紅色の花びらを見、酔いしれることのできる優れた人たちがいる。すごい! 私には無理だ。
●
自由な時代だから、若い人たちも人生の目標は自分で見つけるしかない。誰も示唆してくれないし、殆ど干渉もしない。個の時代、友だちまでもがそうなんだ。基本的には自由いっぱい贅沢な環境かもしれないが、反面ひとりぼっちで淋しいことでもある。そこでしかるべき時までに目標発見に至れなかった若者は、フリーター、バイト、ときにはプー太郎を構え迷いと準備未完の時間を過ごしたりする。ひとりぼっちの淋しさは、あり余る時間の中で携帯による長電話、こころの結び付きがさして深くもない異性とからんで穴埋めしたつもりになったりする。
幸いに「自分の星」が見つかった若者は、走るねえ。一等賞になるためではなく、自己実現のため、わがままのために走るんだ。他人の目とか命令で走るのではないから、かなりの痛みも痛みとは思わないし“あがる”ということがない。すばらしいね。
しかし、ここで肝心なことは、この元気のいいロケットが目標の星に到達するだけの燃料をタンクに用意しているかどうかだ。すなわち、@に能力、Aに意欲、Bに体力だと思うよ。それらが備わっていれば、「Go! Go!」「Never give up!」「Good luck!」だ。
●
【原点0・おぼろ未来文化の基軸】
2004年8月14日(土)、『第28回・アテネオリンピック開会式』をテレビで観ました。ご覧になった方も多いとは思いますが、参加各国の選手入場の後、会場には長い歴史をなぞって数々の人類が登場しました。最後、現代に妊婦が登場します。せり出した腹部はやがて光に輝いて、DNAの絵模様が光によって空間に描き出されました。即ち、DNAにより過去から未来へと続く一本の糸にも似た縦の人間存在、その命を肯定し賛美した表現です。さすがに長い歴史を持つ国ギリシャだけあって、とかく人間の横の関係をしか語れない民主主義諸国とは、文化の奥行きを異にするのだと思い知らされました。涙が流れました。
日本も長い歴史を持つ国家です。現在の扁平な民主主義をいち早く超えて行かなければならないでしょう。私達にとって、横軸だけが大切なのではありません。又、家督制度時代に見るように縦軸だけが大切なのでもないでしょう。
過去から未来へと続く人類の繋がり縦軸と、現存する人々の繋がり横軸が交わる交点0を把握し、両軸を正しく見通すことが出来る足場を文化の中に確立することこそが肝要なのだと、つくづく諭された瞬間でもありました。
●
年の初めの賀状のやりとりが人々の横のつながりの再確認だとすると、墓参は人間の縦のつながりの再確認だと言えるのかもしれない。その意味で墓参は生きている者にとっても空念仏、無駄事ではないのだ。
親があって私が存在し、親の親があって私が存在する。また親の親の親があって私が存在しているわけだ。
神戸に「兵庫大仏」の名で知られる「能福寺」というお寺があって、この裏に墓地がある。ここに先祖の墓がある関係で私は毎年彼岸にここを墓参するのだが、その一角に無縁仏の墓石が山と積まれた無縁塚がある。一把ひとからげというと語弊があるかもしれないが、山と積まれた墓石を見るにつけ心がしくしく痛むのをおぼえてしまう。
墓石を積み上げられることとなった死者とそれを取り巻く人々の事情は様々だろう。子どもに恵まれなかった者、子どもはあっても冷淡を構えているケース、子孫が死に絶えるか、生きていてもすでに墓の管理が不能になっているケース、親戚同士の不仲など様々かと思う。いずれにしても人の世の悲哀を感じさせるものばかりである。しかし、いかに心が痛んだとしても私にどうできるものでもない、そう思いながら私は毎年この無縁塚の前を通り過ぎる。
今年の彼岸に墓参を終えて無縁塚の前を通りかかったとき、若い男女の二人連れを見かけた。二人は無縁塚の前に留まっているのだ。何をしているのかと立ち止まると、女性の方が供花台に溜まったまま腐敗しているらしい水を柄杓で繰り返しすくっては捨て去っているのである。水には白いカビ状の浮遊物が幾つも漂っていた。ここに墓参する者は誰もいないのであろう。やがて腐敗した水を捨て終わった女性は、自分の手桶から新しい水を注ぎ入れたのである。
現代は心希薄の時代と言われる。ことに若年層においてはそれが顕著だ。しかし「ありがとう」の一言も返っては来ない無縁墓への若い女性の配慮とやさしさ、主体的な行動に私は感激し、日本の未来にまだ光明が残されているという思いさえしたのでる。と同時に、毎年この前を素通りしていた自分を深く恥じ入っている最中だ。来年からは、私も水をあげよう。
聖書の一節が思い出される。
「これら、いと小さき者に一杯の水を与うるは、即ち我(神)に与うるなり」
ここはお寺だから、「仏に与うる」なのかもしれない。
●
先祖を否定する者は己を否定する者である。というのも、先祖の尻尾が「私」なのだ。
先祖を敬えない者は、自分を敬えない者ということにもなろう。
「私」はあす、先祖になる。
●
いま単純に
「とうさん、ありがとう」なのだ。
「かあさん、ありがとう」なのだ。
「じいちゃん、ありがとう」なのだ。
「ばあちゃん ありがとう」なのだ。
「ひいじいちゃん、ありがとう」なのだ。
「ひいばあちゃん ありがとう」なのだ。
それから、もっともっともっと「ありがとう」なのだ。
●
「個」の時代………
核家族化が人間の縦のつながりを風景化させてしまったのかもしれない。
●
たとえば、青い空/IT化。
変わってはならないものと、変わるべきものと。それを見分ける透明な心の目と。
●
【現代ニッポン四字ことば】
・日本再生・株価暴落・不良債権・赤字国債・借金財政・年金生活
・学力低下・下方修正・不法入国・拝金主義・夫婦別姓・情緒欠落
・失業保険・地価下落・官民癒着・行政改革・地震列島・化学肥料
・小泉改革・財政破綻・ガン保険・百円均一・談合入札・価格破壊
・人員整理・懲戒解雇・希望退職・出向社員・能力主義・介護保険
・人間不在・性的虐待・大気汚染・水質汚濁・異常気象・情報産業
・流通革命・多重債務・抗菌加工・細菌兵器・携帯電話・海洋汚染
・出社拒否・厚生年金・老人福祉・損失補填・業務提携・民間活力
・有機栽培・学級崩壊・大型倒産・登校拒否・有事立法・幼児虐待
・債務超過・外国資本・破産宣告・残務整理・公的資金・欠陥住宅
・児童買春・手抜工事・買収工作・受託収賄・自己破産・首吊自殺
・金融不安・虚偽申告・脱税指南・政治献金・私設秘書・飛込自殺
・人身事故・中国企業・既得権益・日本沈没・ I T 革命・ I T 不況 etc.
「反省」と「立て直し」。「浄化」と「新生」。
●
あの日、若者たちの命はこの日本に向けて投げ出されたのか?
●
「反省」も「立て直し」も「浄化」も「新生」も
組織からではなく、ぼくたち一人一人の内面に始まるのが正しい。
●
平成15年10月10日午前6時29分、
日本純粋生育最後のトキ・ニッポニアニッポンが死にました。
一瞬、見事な<はばたき>を見せ、
次の瞬間ケージの鉄柵に頭をぶちつけて死んだといいます。
ケージの中で大自然へ・大空への回帰を夢見たのでしょうか?
目を患い、霞んでいく目で、ニッポニアニッポンは鉄柵の隙間から
日本の空に、佐渡の大自然に、何を見たのでしょう?
●
【メール3………それでもなお】
まもなく赤ちゃん誕生ですね。
さて、著書【日本破産】についてですが・・・まるで第2関東大震災、南海・東南海地震にも似て、不気味な影が次第に忍び寄って来る気持ちがします。ご指摘のとおり、今年のわが国の国家予算は82兆円で、それに対する赤字国債依存率は39%を占め、もはや予算の体をなしていません。平たく言えば月収19万円の家庭で支出31万円の暮らしをしているようなものです。足らずの12万円は借金で穴埋めして生活しているという状態で、もちろんそれには支払利息もついてきます。国債の乱発によっても景気は浮上せず、著者が言うとおり打つ手のない危機的状況なのかもしれません。失政の結果とも言えるバブル経済の破綻、又、民主主義のもと政治家が自らの利権をあさり、又、歓心を得たいために国民を甘やかせ続けたツケが、いま目前に迫って来たのだと思います。政治家の責任であると同時に、甘やかせを求め続けた国民の責任でもあるのでしょう。“生きる”ということはそんな甘いものではないのだということを国民みんなが想い起こす機会なのかもしれません。
何の責任もないのに、この大赤字を背負った国に産まれ、否応なく共同責任者になろうとしている赤ちゃんたちが可哀想にも思えます。しかし、そんな不利・逆風の中でこそ確かな心に目覚め、優れた人間に育っていってくれれば、それこそが奪われることのない本人自身の財産になるのだと、おじさんは強い心で信じています。その意味で<実花ちゃん>は“得な時代”“真な時代”に生まれ、生きようとしているのかもしれません。
●
●現代2分間シナリオ【三世代】
嫁(37歳)、置き時計(ほぼ12時)を見て、
嫁 「あの子、今夜も帰らないつもりですかねえ」
義 母(70歳)「みたいだわね。どこで何をしているのか、ほんとにバカな子だよ」
嫁 「でももとはと言えば、あの子がこんな娘に育ったのは、多分にお母さんのせいですよ」
義 母「え? 私のせい? これは驚きましたねえ、どうしてだね?」
嫁 「厳し過ぎたのですよ」
義 母「え? それは心外ですね。私のどこが厳しかったというの?」
嫁 「あの子はもう高校生ですよ。なのに出かけるときには“行って来ます”帰ってきたら“ただいま”と言いなさい。朝は“おはよう”やすむときには“おやすみ”食事をするときは“いただきます”終われば“ごちそうさま”、いまどきそんなことをこまごまと強制される女子高生なんていませんよ。お母さんの古い時代はもう終わったんですよ。今は民主主義の時代なんですよ。“自由”の時代なんです」
義 母「強制じゃありませんよ。教えてるんですよ。15歳にもなって、それだけの行儀さえ身についていないから言うんですよ。長年子どもの面倒を見させておいてよくそんな口のきき方ができますね。あなたが仕事を続けたいって言うから、代わって面倒を看たんじゃないですか」
嫁 「お母さん言わせてもらいますけどね、子どもの面倒を看るということは、まともに育てるということなんですよ。それができないんだったら、最初に断るべきだったんですよ。“残念ですけど私にはできません。無理です”って!」
義 母「ひとの厚意というものが、あなたには分からないのよ。分かれば、そんなふうには言えないはずですよ」
嫁 「厚意て何ですか? 人間しょせんはみんな自分がしたいことをしてるわけでしょ。お母さんだって孫に関わりたかったから楽しくてやった。うれしくてやった。そうでしょ。そして失敗した。違います?」
義 母「違いますよ。厚意というものにはね、努力とか頑張りとか、ときには犠牲だってあるんですよ。楽しいことばかりじゃないんですよ。息子の嫁がこんなひどい人だってことが分かってたら、やさしさなんて持ち出すんじゃなかったわ」
嫁 「そうですね。お母さんには見る目がなかったのかも知れませんね。無理なことは無理、イヤなことはイヤとはっきり言うべきだったんですよ。努力だの背伸びだのしないでくださいよ。その挙げ句が、3日続きの連絡なしの外泊なんですからね。厚意だかなんだか知りませんけど、迷惑というものですわ!」
義 母「ああそうかい。こんど生まれてきたときには、もう孫の世話はしませんよ。だけどね、人間、好きなことばかりして努力をしないで人生に何を積み上げることができるんです?」
嫁 「好きなことをしてたら、自然に積み上がっていくんです」
義 母「ああ、自由の傲慢というやつですね。そんなにうまくいくんですかねえ。中身が出来上がった立派な人ならいざ知らず」
嫁 「とにかく、これからは私たちと娘の時代なんです。お母さんは引っ込んでいて下さいよ」
義 母「そうして、私たちや先祖が築いてきた日本を、あなたたちがダメにするんですよね。21世紀は日本が衰えていく世紀だって外国じゃ噂しているらしいけど、まったく当たってるかも知れませんよ」
嫁 「先のことなんて誰にも分かりません」
義 母「先のことじゃなくて、わたしにはもうすでに始まっているように見えますがねえ。心とか相手に対する尊敬・礼儀とかがブッ飛んじまって……全ては人に始まるってことです。人がダメなら、全てが崩れていきます。家庭をも含めて、ここは人の社会なんですからね」
娘 「(つぶやくように)ただいま……」
振り向く義母と嫁。
ドア脇に立つ娘と女友達。
義 母「あら、いま何て言ったの?」
娘 「ただいま」
義 母「おかえりなさい!………(窓の外を見やって)まあ、夜空に十五夜のお月さまがきれいなこと。あした晴れてくれればいいのにね」
●
【遺言】
わが国の長い歴史を通して、営々と築かれて来た日本文化は、第二次世界大戦に於ける無条件降伏と同時に
アメリカ合衆国及びアメリカ民主主義によって一方的に大きな太刀傷を背に受けた。そのキズ跡のことを日
本人、ことに若い人たちはほとんど知らない。押しつけられたアメリカ民主主義の中身を検討・取捨する手
だても持たずひたすら「絶対正義」と信じ込まされ、いまではアメリカ民主主義は宗教的信仰の教典のよう
な存在ドグマに成り上がってしまった。その結果日本の「民族の心」はコンクリートの下に塗りつぶされた
植物たちのように抗う心も疑問を挟む方法もなくした。その視野と主体性を失った社会がここにあるのだ。
●
荒らされたこの郷土、浸食された郷土を、心の郷土・人間の郷土にもどさなければならない。そうしない限り、この郷土を心の底から“ぼくたちの郷土”と呼べないではないか。故郷を得るまでは、ぼくのハート、きっと君のハートも24時間「キューキュー」と、正しくさまよい正しく泣き続けるのだろう。ぼくたちの郷土は、手のひらを上向きに「お恵み下さい」とおねだりして与えられるものではない。この手この足この心で、ぼくたち自身が一つひとつ取り戻していくはずのものなのだ。なぜなら、それはぼくたちの郷土なのだから・・・
欲を離れて、汗しようか。
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1億3000万分の1だとしても
わたしが「日本」
67億分の1だったとしても
わたしが「世界」
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あなたの個室の窓を開いてみませんか?
涙ややさしさやさまざまな情緒や感謝の心が萎えていく、
砂漠化日本列島が見えますか?
まずあなたと私のこころの中に
苗木を植えてやりましょうか?
日々水やりを怠らず
やがて若葉と花々を咲かせることを
もう一度目指しませんか?
くり返されるテロと爆撃の応酬によって
世界がどう変わるにしろ変わらないにしろ
こころに花を咲かせませんか?
それこそが誰に奪われることもない
キラキラ光る「自分自身の宝石」だし
すべての始まりなのだということを
もう一度信じてみませんか?
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■あとがき■
あれこれ書いてまいりましたが、
一つでもあなたの心のなかに記
録されるものがあれば幸いです。
最後までお読み頂きありがとう
ございました。インターネットとい
う社会資産があればこその一期
一会かと思い、その意味ではよ
き時に生きることができうれしく
思います。
木村長世
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=全120編=